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読書の周辺
古 典 の 運 命
―ギリシア文学はどれだけ残ったか―
中務 哲郎
紀元前401年、 ペルシアのキュロス王子は、 実兄アルタクセルクセス王に対する謀叛の軍を興し、 リュディア地方の古都サルデイスを発ってバビロンを目ざした。キュロスの傭兵となった1万余のギリシア人は、 行軍の真の目的も告げられぬまま東へ東へと進んだが、 キュロスのあっけない討死によって敵地の真っ只中に取り残されることになる。 これから後はペルシア軍の謀略、 原住民の襲撃、 雪深いアルメニア山岳地帯の難行軍、 と苦難の連続であったが、 このギリシア兵を統率し、 小アジアのペルガモンまで導いて帰ったのが、 ソクラテスの弟子、 アテナイ人クセノポンであった。
クセノポンは後に閑暇を得て、 この時の従軍記録 『アナバシス』 を著すことになるが、 大部分が敵地からの撤退の記録である書物を 「アナバシス (攻め上り)」 と呼ぶのはおかしい、 と不平を鳴らす人は一人もいない。それどころかこの本は、 軍隊における人間模様、 危機に際してのリーダーの判断、 6000キロに及ぶ行程の行く先々で出会う民族の風習への関心、 大軍に通過される現地人の態度、 いずれの観点からも魅力に溢れ、 英国の作家ギッシングなどは、 ギリシア語で書かれた作品がこの 『アナバシス』 ひとつしか残されていないとしても、 ギリシア語を学ぶ価値がある、 と述べているほどである。
さて、 この本の終り近くでクセノポンは興味ぶかい思い出を記している。 心ならずもトラキアの豪族セウテスの配下に入り、 近隣諸部族の掃討に従事する時のこと、 黒海西岸のボスポロス海峡に近い辺りに位置するサルミュデッソスという所で、 こんな光景を目撃した。
……やがてサルミュデッソスに到着した。ここでは黒海へ入ろうとする多数の船が砂に乗り上げて難破していた。海岸に浅瀬が広く連なっているからである。この辺りに住むトラキア人たちは、 標柱を立てて境界を示し、 それぞれ自分たちの領域に難破した船の物資を奪う。境界をきめる以前は、 掠奪の際に争い合って、 双方に多数の死者が出たという。ここで多数の寝台や箱や書物、 その他船主たちが木製の容器に詰めて運んでいたさまざまな品物が見付かった(『アナバシス』7・5・12以下、 松平千秋訳、 岩波文庫)。
これはわれわれの先祖も知っていた、 というより、 時には作りだしさえした光景ではないか。生命を支えるに足る生産が不可能な島や沿岸に住む人々にとっては、 食糧や木材を打ち寄せてくれる難破船はまたとない恩恵であった。流木や死魚や海藻といった自然の寄物(よりもの)を待つばかりでなく、 年の始めにこの1年に難船の多からんことを祈る風習が各地にあったし、 沖に悪風の吹く時には、 松明を持って浜辺を往来し、 港を探す船を暗礁に誘き寄せるようなことさえ行われたという(宮本常一他監修 『日本残酷物語1 貧しき人々のむれ』 平凡社)。
クセノポンの記録に誘われる思いはもうひとつある。見付かった多数の寝台や箱や書物というのは、 トラキア人が金目のものを奪い去った後の残り物であったかもしれない。潮水に濡れそぼつ本(パピルスの巻物)は一体どれだけ拡げて乾かされ、 本としての生命を回復したであろう。また、 多数の書物とあるからには、 この本は個人の旅の友などではなく、 ギリシアからの輸出品であったろう。アテナイでは紀元前5世紀には本屋業が興っていた。しかしまた、 多数とはいっても、 同じ書物のコピーが多数であったとは考えにくい。一字一字写しとって複製を作るしかなかった時代、 本の 「出版部数」 は極めて少なかったはずである。クセノポンが見たものの中には、 この時この浜辺で永遠に失われてしまった天下の孤本はなかったであろうか。
ディオゲネス・ラエルティオス 『ギリシア哲学者列伝』 (2・57) によると、 クセノポンには15の著作があるというが、 幸い全てが現存する。しかし、 時はあらゆるギリシア作家にこれほど優しいわけではない。ギリシア文学はどれほど失われ、 どれほど残ったのであろうか。
ホメロスの作と伝えられる 『イリアス』 と 『オデュッセイア』 (前8世紀後半) は、 トロイア戦争の遠い原因からトロイア滅亡後数十年の事件までを扱った、 「叙事詩の環」 と呼ばれる8篇の詩の一部であった。8篇は出来事の順序に従って次のように配列される。
1)『キュプリア』 キュプロス島のスタシノス、 またはヘゲシアスの作、 11巻。
2)『イリアス』 24巻、 15695行。
3)『アイティオピス』 ミレトスのアルクティノス作、 5巻。
4)『小イリアス』 ミテュレネのレスケス作、 4巻。
5)『イリオンの陥落』 ミレトスのアルクティノス作、 2巻。
6) 『帰国物語』 トロイゼンのアギアス作、 5巻。
7)『オデュッセイア』 24巻、 12110行。
8)『テレゴノス物語』 キュレネのエウガモン作、 2巻。
トロイア伝説を歌った叙事詩は少なくともこれだけ知られているのに、 今に伝わるのは 『イリアス』 と 『オデュッセイア』 のみである。これ以外の作品については、 プロクロス(5世紀、 新プラトン派の哲学者)に帰される 『文学要覧』 からポティオス(9世紀、 コンスタンティノプルの総主教)が抜萃した記事によって梗概を知るしかない。この梗概は岡道男 『ホメロスにおける伝統の継承と創造』(創文社)付録で邦訳を読むことができるが、 作品そのものからは、 例えば 『キュプリア』 の断片49行、 『帰国物語』 の断片3行が残るのみである。
「叙事詩の環」 を形成する諸詩の中から、 残るものと消え去るものとを分けたのは、 緊密な構成・作品としての統一性の有無であったと思われる。『イリアス』 は50日足らずの事件を語る間に、 トロイア戦争の原因からトロイア滅亡の予感までを歌いこんでいるし、 『オデュッセイア』 も四十数日を語りながら、 20年に及ぶオデュッセウスの冒険と息子の成長を説き尽くしている。これに対して他の叙事詩は、 多様な事件を単純に順を追って叙述しただけのようである。アリストテレスによると、 歴史記述に要求されるのは行為の統一性ではなく時間の統一性であり、 同じ時間内に起こったことはすべて無差別に記述されるから、 個々の出来事の間に必然的な関係がないことも多い。これに対して、 「叙事詩の筋は、 悲劇の場合と同様に、 劇的な筋として組みたてられなければならない。すなわち、 それは、 初めと中間と終わりをそなえ完結した一つの全体としての行為を中心に、 組みたてられなければならない」 (『詩学』1459a、 岡道男訳、 岩波文庫)。多くの叙事詩人が歴史記述に似た作り方をするのに対して、 トロイア戦争に関する様々な出来事の中から一部だけを取り出して中心主題とし、 他は挿話として処理したホメロスは神のようだ、 とアリストテレスは評するのである。
「叙事詩の環」 の詩以外にも有名無名の詩人による叙事詩が作られたが、 アポロニオス・ロディオス 『アルゴナウティカ』 (前3世紀) 以外は失われた。
叙事詩に続いて抒情詩のジャンルが生まれたが、 その中で最も名高い詩人はサッポー (前7世紀後半生まれ) であろうか。ギリシアの詩人は九柱のムーサイ (ミューズ、 詩神) の霊感を受けて詩を作ったとされるが、 レスボス島のサッポーはプラトンによって 「十番目のムーサ」 と称えられるほど古代より令名が高かった。彼女の作品はアレクサンドレイア文献学の盛時、 ビュザンティオンのアリストパネス (前3、 2世紀) の手で校訂され、 詩神の数に因んで全9巻に編まれた。祝婚歌、 讃歌等のテーマによって巻が分けられていたらしく、 第1巻が約1300行を含むところから、 全体の分量が推測されるのである。
これだけの作品が紀元後2、 3世紀にもなお大部分残っていたと考えられる。ところが、 キリスト教世界は異教の文学に寛容ではなかった。380年頃、 コンスタンティノプルの総主教ナジアンゾスのグレゴリオスによってギリシアの恋愛詩が大量に火中に投ぜられた時、 サッポーの詩はその蛮行の最大の標的であった。さらに、 この厄を辛うじて生き延びた作品も、 1073年、 教皇グレゴリオス7世による焚書によって完全に地上から姿を消してしまった。現在われわれが手にする 「サッポー詩集」 は、 多種多様な古代文献にたまたま引用されて残る断簡零墨を、 近代の学者が見つけ出し、 編んだものにすぎない。完全な姿をとどめるのは28行から成る 「アプロディテ祷歌」 ただ1篇、 他はすべて断片である。「9巻あったと伝えられるレスボスの詩女神(ムーサ)の作品の90パーセント以上は、 2500年あまりの歳月と、 愚かなキリスト教徒の手によって、 永久に失われてしまった」 (沓掛良彦 『サッフォー 詩と生涯』 平凡社)。
三大悲劇詩人については、 10世紀に編まれた文学百科事典 『スーダ事典』 や中世写本に付された 「作家伝」 などによって、 それぞれの創作の数を知ることができる。それによると、 アイスキュロス (前525頃‐456年) の作品はすべて90篇、 あるいは75篇とされるが、 今日残るのは7篇にすぎない。 ソポクレス (前496/5‐406年) は多作で、 123の悲劇を作ったと伝えられるが、 現在まで伝わるのは同じく7篇のみである。エウリピデス (前485頃‐406年) は92の劇を作り、 『スーダ事典』 では77篇が現存すると記されているのに、 今では19篇しか残っていない。その中 『レソス』 は偽作の疑いが濃く、 『キュクロプス』 は悲劇ではなくサテュロス劇というものである。三大悲劇詩人の作品の生存率は、 ごく大雑把に計算すれば11パーセントということになる。
紀元前534/3年、 アテナイの大ディオニュシア祭でテスピスが初めて悲劇を上演した、 との伝承は信じがたいとも言われるが、 ともあれこの頃、 悲劇の競演がアテナイの国家的行事として組織された。やがてサテュロス劇 ――一説に、 悲劇の緊張を解きほぐすための滑稽劇と解釈される――が導入され、 演劇コンテストには3人の作家がそれぞれ悲劇3篇とサテュロス劇1篇を提出することが制度化された。毎年3人の作家が計12の芝居を上演したから、 前5世紀の100年間だけで1200の悲劇とサテュロス劇が作られたことになる。しかも、 3月末の大ディオニュシア祭に出場できるのは選ばれた3詩人であって、 前年の夏か秋に行われる予選に落ちた作家がいる。さらに、 大ディオニュシア祭だけではなく1月のレナイア祭でも、 喜劇と並んで悲劇の競演が行われた。してみると実に夥しい数の劇が作られたはずであるが、 完全な形で今に伝わるのは、 悲劇32篇とサテュロス劇1篇のみである。
多くの劇が失われた原因の一つは、 コンテストという上演の形式にある。 悲劇はコンテストで賞を得ることを目的に作られたから、 優勝あるいは二等三等を勝ち得た作品は、 そのタイトル・作者・合唱隊(コロス)の費用を負担した人物などが大理石に刻まれ記録されたが、 選にもれた作品はたちまち忘れ去られた。 優勝するほどの作品でさえ、 本来一回きりの上演のために作られたのであり、 好評を博して数十年百年の後に再演されるものは僅かしかなかったのである。
喜劇も悲劇と同様に、 大ディオニュシア祭やレナイア祭での競演のために作られた。そして残されたものも、 悲劇と同様に少ない。 テオドル・コック編 『アッティカ喜劇詩人断片集』 には168人の作家の名前と1483篇のタイトルが見えるが、 今日完全な形で読むことができるのは2詩人の十数篇のみである。
アッティカ喜劇はふつう三つの時期に分けられる。アテナイの黄金時代から、 アテナイがペロポネソス戦争に敗れ覇権を失うまでの時代に作られた古喜劇 (前480頃‐前400年頃)、 激しい政治批判や個人攻撃、 大らかなエロティシズムが影をひそめ、 代わりに筋が複雑化していったと考えられる中喜劇 (前400頃‐前330年頃)、 ヘレニズム時代の幕開きに対応する新喜劇 (前330年頃以降)、 である。
古喜劇、 というよりギリシア喜劇を代表するアリストパネス (前445頃‐380年頃) は40余りの喜劇を作ったが、 現存するのは11篇のみである。中喜劇は70年程の間に1000を越す作品が量産されたと考えられるのに、 今日に伝わるものは皆無である。
新喜劇のメナンドロス (前342/1‐293/2年) の古代における評価には極めて高いものがあった。人情の機微を穿ち人生の哀楽を描いて間然する所がなかった彼の作品を評して、 ほぼ100年後のビュザンティオンのアリストパネスは、 「ああ、 メナンドロスと人生よ、 御身らは、 どちらがどちらを模倣したのか」 と歌い、 メナンドロスを凌ぐ詩人はホメロスのみ、 と称えた。これほどの作家がやがて顧みられなくなることについては幾つかの理由が考えられる。まず、 道楽息子の色恋沙汰、 正式の結婚と内縁関係、 捨て子との再会、 実の兄妹のニア・ミス、 といった話題が頻出する彼の作品は、 学校の教材から排除された。次に、 2世紀以後のローマ世界で一種のギリシア文学復興運動が興ったが、 そこで範とされたのは紀元前5世紀のギリシア語であり、 時代の下がるメナンドロスのギリシア語は軽視された、 という事情がある。
メナンドロスにはしかし、 今世紀になって再発見された作品もある。1905年、 ナイル河流域のアプロディトポリスで6世紀のローマ人法律家の邸宅が発掘され、 壺に納めた文書を保護するためのパピルスが、 実はメナンドロスの5つの喜劇を含む写本の再利用であることが発見された。さらに、 発掘地や入手経路は明らかにされていないあるパピルスには、 『気むずかし屋』 の全969行が筆写されていたのである。
メナンドロスにはこの他、 名言集に採られて残る章句も多いが、 それらを全て合わせても、 われわれの持つメナンドロスは全体の8パーセント程にすぎぬと見積もられている。
散文についてはただ二人の例を見るにとどめておこう。
ローマ皇帝ティベリウスに寵愛された占星術師トラシュロス(後36年死)は音楽や哲学に関する書物も著したようだが、 彼の説によると、 プラトン (前429頃‐347年)はその対話篇を悲劇詩人と同様四部作の形で出版し、 真作と認められるものは56篇であったという (ディオゲネス・ラエルティオス 『ギリシア哲学者列伝』 3・56以下)。この数は、 『国家』10巻と 『法律』12巻をそれぞれ1と数えると36となり、 われわれが持っているプラトンの作品数と見事に一致する。紀元前後に存在したプラトンの作品が、 今もそっくり残っている、 ということである。しかも、 古代人が知っていてわれわれが知らないプラトン作品はないと考えて大過ないということであるから (田中美知太郎 『プラトンI 生涯と著作』 岩波書店)、 われわれは 「プラトン全集」 を持つ、 と言ってもよいのである。
これに対して、 アリストテレスの孫弟子になるパレロンのデメトリオス (前350頃‐280年頃) の著作の運命はどうであったか。「政治にはすぐれているが学者としては凡庸だとか、 博学ではあるが政治にはあまり通じていないとか、 そういう人ならいくらでもあげることができるのだが、 しかしこの両方の面ですぐれていて、 学問研究においても国家行政においても第一人者であるというような人物は、 このデメトリオス以外には、 ざらに見つかるものではない」 (キケロ 『法律について』3・6。中村善也訳) と評されたデメトリオスには、 45点の著作があったと伝えられる (ディオゲネス・ラエルティオス 『ギリシア哲学者列伝』 5・81)。しかし、 今日まで生き延びたものは一つもない。 著作リストの中から僅かに1篇、 「アイソポスの集成 1巻」 と呼ばれるものが、 われわれの持つ 『イソップ寓話集』 の基礎であったか、 と推測されるのみである。
人間が生まれおちた瞬間から死の危険に晒されているように、 書物も、 湮滅の危機の中へと生み出される。 1000年以上にわたって創られ続けたギリシア文学の中、 今日に伝わるものはごく僅かにすぎないが、 われわれとしては、 惜しみても余りある喪失を悲しむべきか、 二千数百年も、 よくもこれ程生き残ってくれたと喜ぶべきか、 どちらであろう。書物には散逸の危険と同様に、 「作られ過ぎ」 の弊もあるのではないかと思いつつ、 古代の本の運命に思いを馳せてみた。
(京都大学教授・西洋古典学)
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