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読書の周辺
バルザックと活字
―生誕200年によせて―
柏木 隆雄
消え行く活版印刷への思いを寄せたエッセーを集めた『活字礼讃』(活字文化社刊、1992年)に、グラフィックデザイナーの杉浦康平はこう書いている。
「1つ1つの活字とは、じつはわれわれ1人1人なのではないだろうか。グーテンベルグが発明した活版印刷のシステムとは、人々が群れ集う市民社会の縮図であり、その暗喩としての役割をも果してきたのではないだろうか。」
こうした活字印刷のシステムを、直に自分の手で習いおぼえ、自分の目に焼き付けた人間が、どうして文字に無関心でありえよう。どうして言葉に冷淡でいられよう。どうして個のあつまる集団に心を向けないでおれようか。かれらが活字に代えてペンを取った時、個と社会の現象に深い洞察を示す文章を書き記すようになるのは自然の成り行きだろう。
英雄豪傑でない普通の少女が主人公の『パミラ』によって近代小説が始まったとされる。その作者サミュエル・リチャードソンは、ようやく産業社会、情報社会に入ろうとするロンドンの活版印刷が本業だった。活版印刷のシステムが「人々が群れ集う市民社会の縮図であり、その暗喩」という言葉は、印刷工リチャードンが、はからずも近代市民小説の創始者となった事実に、ぴったりと符合するように思われる。
今年生誕200年を迎える19世紀フランス最大の小説家オノレ・ド・バルザックも、20代の青年の頃、活版印刷所を自から手がけている。そればかりか、リチャードソンのように出版者として本も出し、さらに、リチャードソンも手をそめなかった活字の鋳造業にまで手を出すほど「印刷」というものにどっぷり漬かった男だった。バルザックの面白いところは、活字の埃にまみれ、インクに手を汚す生活を送った後作家になったリチャードソンとまったく逆のコースをたどったことだ。もっとも彼は出版業に手を出す前に、変名の若書きながら、いっぱしの小説家としてスタートしたことがある。バルザックこそは活字の魔に最も魅いられた小説家であった。
濃いコーヒーをガブガブ飲みながら、ペンの運びの最も凄まじい折りには、1日に18時間も書き続け、ペンの進みの悪い日でも9時間、よくも悪くもない日には12時間、休みなしに創作に耽った輪転機のような多作家。
空想の世界では実業を夢みて幾百万フランの利益を精密に計上しえたが、実生活においては、払いきれぬ借金のために、書いて書いて書きなぐった小説家。
これは日本のフランス文学研究の草分け故辰野隆教授がバルザックについて書いた短文の冒頭である。バルザックの精力絶倫の多作を語り、彼のうかつな生活者としての姿をみごとに一筆で浮き彫りにする名言だ。そしてじつはこの短文のなかにもバルザックの小説家としての本質と活版印刷とのかかわりの暗示が見いだされる。「輪転機のような多作家」は、まことに言いえて妙、彼の早書きはちょっと信じられないくらいである。
夜に日をついでとにかく原稿を書き上げて印刷所に渡す。初校が戻ってくるとものすごい訂正や書き込みをして返し、二校ではいっそうさかんに訂正してさらに分量がふくらんでいく。バルザックはしばしば印刷屋から超過料金を請求され、それも彼の膨大な借金をふやすことになった。
このことは、いかにバルザックが湧き出る構想のおもむくままひたすら書きなぐったかを示しているが、彼が活版印刷に精通していればこそできたのだろう。ペンで書きなぐった原稿が印字もあざやかに整然とならんだ校正刷りが出てくれば、彼の幻視的な想像力がいっそう刺激されて、言葉が次から次へと浮かんでくる。
ゲラ刷りばかりではない。1842年に刊行を始めた『人間喜劇』全17巻は、結局彼の死によって中断されたが、バルザック所蔵のフュルヌ版『人間喜劇』の1冊1冊すべてには、再版にそなえて彼自身のペンで克明な書き込みがされている。単純なミスプリの訂正もあれば、頁や見返しの余白一面に書き加えてなお足らず、新しい紙を貼りつけてびっしりと書きつけているのもある。つまり仕上がった本までも校正刷りと同じ扱いなのだ。現在われわれが読んでいるバルザックのテクストは、バルザックの最終的な加筆をおこして再編集したものだ。
『人間喜劇』は、長短の小説あわせておよそ90編、現在もっとも信頼のおけるプレイアッド版で12巻およそ2万頁におさめられている。プルーストの長編『失われた時を求めて』でも、詳しい注と元原稿の参考編をあわせて4巻なのだから、「輪転機のような」という形容もうなずけるだろう。しかもこれはバルザックが30歳から50歳までの仕事である。
そのうえ18年間愛人ハンスカ夫人に書き続けた手紙が5巻、他の友人、知己に宛てた手紙が5巻、これでなおサロンにも出かけて社交もおろそかにせず、あちこちヨーロッパ各地を旅行したりしているのだから、いったいどれだけの速度でペンを それも万年筆のある時代ではなかった 走らせていたのかと驚いてしまう。
もっとも書いた量の多さと言えば、バルザックと同時代の作家アレクサンドル・デュマの作品集は、地図帳ほどもある大判に細かい活字で二段組みのものが25巻もならんで、しかもそれは小説のみ、別に数巻からなる戯曲集がある、というのだから上には上がある。当時もっとも人気があって、デュマとともに原稿料の高さでバルザックをくやしがらせたウジェーヌ・シューも多作だが、デュマにはけっきょく及ぶまい。デュマの大量生産の秘密は、工房ともいうべき助手たちの存在にあるが、バルザックも劇作家志望のラッサイィなどを助手に使っていたことがある。
しかしこれほど原稿を書き散らして、大量の本を売りまくったにもかかわらず、両者ともどうしようもないほどの借金で苦しんでいた。デュマの借財はその豪奢な生活のつけがまわったのが最大の原因だが、バルザックの場合は、「空想の世界では実業を夢みて幾百万フランの利益を精密に計上しえた」ものの、じっさいはその精密なはずの計算がみごとにはずれ、事業早々4年ともたずに莫大な借金をかかえて倒産したのである。そしてその借金に一生苦労することになった。その事業が、まず出版、それが失敗して印刷、そして活字鋳造なのである。
バルザックは、出版、印刷という近代資本主義社会での必須の情報メディア産業に乗り込んで一本立ちをした上で大金をもうけ、さてその金で悠々と執筆に専念するつもりだった。しかしそのもくろみはみごとに外れる。法律家として成功してほしい両親の願いに背いて、バルザックは大学を出たあと6歳年長の大衆作家ル・ポワトヴァン・ド・レグルヴィルと知り合い、ローヌ卿とかオラース・ド・サン・トヴァンといったペン・ネームで、今日いわゆる『初期小説集』におさめられる作品を書き綴った。その間およそ六年、当時流行の大衆小説のあらゆるジャンルに挑戦しながら、結局それらは華々しい成功をみず、バルザックは家からの仕送りを断たれ、家族のもとに帰らざるをえない。その時、当時前衛文学だったロマン主義関係の本屋ユルバン・カネルが、モリエールやラ・フォンテーヌの一冊本の全集を出す企画をもっていることを耳にする。
バルザックの伝記を書いた妹ロールは、コンパクトな一巻本の個人全集は、兄の創案と言うが、事実はカネルもすでにそのアイデアを持っていたらしい。相談の結果バルザック1人の発行ということになって、多額の資金は母親と22歳年上の愛人ベルニー夫人が負担した。ところが出版した『ラ・フォンテーヌ全集』は、3000部刷って売れたのはわずか20部、同じ体裁の『モリエール全集』も惨たるありさまだった。
その『ラ・フォンテーヌ全集』が私の手元にある。赤いカルトンの表紙の、A5判を細身の縦長にした八折り本のこの本は、売れた20部のうちの1冊だろうか。あるいは破産したバルザックの財産整理をした本屋から出たものなのか。本の扉には『ラ・フォンテーヌ全集』とあって、ドヴェリア画、トンプソン彫版のラ・フォンテーヌの肖像画があり、左の白い頁に出版者バルザックと印刷して住所も付してある。
最大の問題は1冊に全部を収めるために、ものすごく小さな活字を使用したことだ。バルザックが巻頭に書いた「解説」はまだ読めるが、本文の活字はいわゆるミニョンヌと呼ばれる7ポイントでごく小さく、しかも縦長の紙面に2段となるときわめて読みにくい。比較的短く、余白も多少ある詩などは我慢すればなんとか読めるが、『プシケーの恋』といった長編詩は、よほどの忍耐がいる。『全集』と称するだけに全495頁、価格もそうとう高かった。この手の本は高ければ売れるわけがない。
バルザックはこうした本を印刷している時、本当に売れると思っていたのだろうか。当時大作家の全集といえば、大きな本で数巻とか、あるいは手のひらに入って貴夫人がもてあそぶに優雅な小さい本で数巻、ときには10冊以上になった。一巻で大作家のすべてが読める、このアイデアは画期的と思えたことだろう。活字好きのおちいりやすい罠である。活字の魔にバルザックは魅いられていたのだ。大作家のコンパクトな全集本というアイデアに酔っていたバルザックの思惑は、みごとにはずれて彼に1万4000フランの借金を残すことになった。
私の机にもう1冊、若いバルザックの苦闘の形見がある。1828年刊の八折り本の『故シャミー子爵夫人遺稿同時代情景集』である。これは架空の故シャミー子爵夫人を名乗る複数の作者が、王政復古下、旧貴族たちの旧態依然とした体質を風刺した戯曲仕立てのスケッチ集で、のちの人気挿絵画家アンリ・モニエが口絵を描いている。その彩色の口絵の扉の左の頁にバルザック印刷所とある。出版者は例のユルバン・カネル。もちろん使用している活字は大きく、余白も十分とって印字も濃い。バルザックは最初の失敗にもめげず、先述の全集のさい知り合った印刷職人バルビエと組んで1826年に印刷所を始めた。開店の時、本屋の債務に加えてさらに6万フランの借財がすでにできている。
2年間、バルザックは印刷工場に陣取りながら、インクと埃にまみれて悪戦苦闘する。オノトー、ヴィケール著『バルザックの青春印刷屋バルザック』によればその間印刷したものは160点余。その中にはシェークスピア全集もあれば、料理の本、『一銭も支払わずして借金を返し、債権者を満足させる法』などというのもある。これを印刷するときバルザックはどんな顔で校正したことだろう。
こうした自転車操業というもおろかな経営で、請け負う仕事も多くないままに、バルザックはさらに活字鋳造の会社の共同経営者になる。それも状況をさらに悪化させるばかりで1828年8月、彼は印刷、鋳造ともに手を引かざるをえなくなった。清算してくれた母親への5万フラン近い借金が、2年間の事業で彼が得たものだった。バルザックの活字鋳造所は、ベルニー夫人の息子が加わってたて直し、やがてパリ有数の会社となる。それはちょうど20世紀になってプレイアッド叢書とか、スイユ社のアンテグラル叢書などコンパクトな全集一巻本が成功して、バルザックのアイデアが隆盛しているのと同じ皮肉な結果である。
印刷撤退を余儀なくされた「家の馬鹿息子」バルザックは、再び小説を書くことによって活路をみいだそうとした。彼はベルニー夫人や彼の文学の先達ラトュッシュに励まされながら、新しい小説の構想を練る。折から流行の歴史小説に活路を見いだそうと、借金を背負ったままパリを発ち、ヴェンデ戦争の中心地の一つフージェールに約1ヵ月滞在、『最後のふくろう党あるいは1800年のブルターニュ』を書いた。1829年、小説家オノレ・バルザック(この時はまだ貴族を僣称するドはつけていない)の誕生である。
バルザックの3年あまりの出版事業は、あまりに無残な結果におわった。多くの批評家や研究家は、バルザックの空想の大きさと現実との齟齬をいう。事業家としてのうかつさを、のちに作家バルザックが築きあげた『人間喜劇』の壮大な宇宙と比較して、ほほえましくとらえる人もある。しかし多大の借金を抱えながら、なお活字の世界に彼をのめりこませていったものは何だったのだろう。出版から印刷、活字鋳造への道筋は、単なる金もうけの筋道を立てただけでないものが感じられる。元へ、始めへ、原理へ、原理へとつきすすんでいくバルザックの本質がそこにあらわれていないだろうか。
できあがった本から、組版へ、そして1つ1つの活字へ、その活字の形さえまだ与えられていない鉛の湯へ。バルザックの精神は、ひたすら、文の、言葉の初源へ遡った。あたかも彼がのちに描く『絶対の探究』のバルタザール・クラースがあらゆる家族の犠牲をかえりみず、「絶対」という宇宙の根源をなす物質を求めていったように。『知られざる傑作』の画家フレノフェールが絵画の絶対を求めて自らさえも犠牲にしたように。まるで点にしか見えない活字の黒い集積のなかに、彼は作家の根源を見ようとしたのではあるまいか。
読むひと、書くひと、作るひと。2年間現場で接した活字の海の中で、彼は作家たちの原点となるものを見ていたのだ。しかも彼が見たものは詩歌小説の類だけではない。彼の印刷リストには、薬の広告もあれば、薪炭商となる手引、政治所信の表明もある。歴史の逸話や名句集も彼の輪転機にかかった。ネクタイの締め方から法令集もある。外国人向けのパリ案内の記事もあった。
彼がそうした活字の海から、再びペンによって生み出される言葉の世界にもどった時、それらの活字は、彼の頭の中で、つむじ風に舞うように回りながら、自ずから自分たちの位置を定めていくのである。
(大阪大学文学部教授)
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