読書の周辺
文 字 と 経 済 学
星川 順一
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経済学は、 仮定をおき、 推論し、 結論をうるという 「科学」 としての作業を行っている。結論が気に入らなければ、 仮定の変更によって結論の変更もありうる。 必ずしもそうなるとは限らないが。 仮定の置き方にそれぞれの研究者の考え方が影響するが、 推論は主観を含まない作業である。
私たちのこのような作業は、 論理性についてではないが、 比喩的に言えば、 俳句と似ている。 俳句は、 十七文字の字数のうちに、 自然や人間の思いを凝縮させる。 「朝顔に釣瓶とられてもらい水」 (千代女)、 「古池や蛙飛びこむ水の音」 (芭蕉)等々。 それらを読む人は、 それぞれの体験、 感覚と知性において、 その十七文字から自らの自然と風景や人々の感情を想起させる。 人それぞれに、 短い文章で壮大な想いを呼び起こすという作業は、 俳句の特技であろう。 世界には、 これに類する文字の領域はあるであろう。
筆者は年齢を重ね残りの時間が短くなったゆえとは言い切れないように思われるが、 著書や論集は短くて想像を掻き立ててくれるものが有り難い。 より正確に述べれば、 想像させる世界に比して短い文章が望ましい。 その意味では、 それが呼び起こす想像の世界との比較において、 文章は長くても良い。
経済学で証明のために数学がよく用いられる。 それは数学的証明の助力をうることでもあるが、 それは同時に論文を短くし壮大な結論を早く述べることを可能とする。 折角の機会であるので、 自らの関心のある経済政策のことについて述べたいと思う。 法人税率は国際的基準にするのは当然のことであるが、 さらに所得税削減や公共投資などの提案がなされている。 経済学者には周知のものであるが、 それらを例題として非専門の方々を念頭に述べたい。
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バブルの発生と崩壊以降、 今日の日本経済は苦境のなかにある。 このとき様々な政策が提案される。 ここで経済学には幾つか良く知られた命題がある。 国債の発行をともなう所得税減税が議論の対象であるとしよう。 もし家計が今日の受益と国債償還の将来の負担を正確に計算できるとしよう。 また家計は財政を自らのもの(納税と受益)であるという意識をもつとしよう。 このような仮定を置くならば、 先の政策は貯蓄の増加を導き、 有効需要の増加をもたらさない。 貯蓄の増加をもって、 将来の負担に備える。 それは、 リカードウの中立命題と呼ばれるものである。 これについては、 Barro: Macroeconomics(谷内満訳、 多賀出版)が良く説明している。
自らの生命が国債償還期より短い人々にとっては、 子孫が可愛いという想いがあれば、 その貯蓄は遺産として残される(Barro: "Are Government Bonds Net Wealth?" Journal of Political Economy, Vol.82, No.6, 1974 を参照)。 それは、 子孫の将来負担のための遺産である。 それは、 私たちの現実を想起させるモデルであろう。
現実は、 モデルの仮定を、 どの程度満たすであろうか。 それは、 つぎの課題である。 この仮説が崩れるモデルについては、 柴田章久 「公債の中立命題:展望」 (『大阪大学経済学』 第40巻3・4号、 1991年)が克明に報告している。 その詳細な文献照査には、 勉強になった。 この中立命題が崩れるときには、 困った事態が訪れる。
また、 教育減税は、 子孫への人的遺産を残す程度(教育効果の増進)に応じて、 上記とは相違することになるであろう。 税率体系変更については、 別の議論が必要である。
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つぎに、 公共投資については、 なお考慮すべきことがあるようである。 貿易理論に、Heckscher-Ohlin 命題という有名なモデルがある。 二国間の貿易において、 両国とも生産技術は同じであり、 また消費者の選好体系も同じであるとしよう。 二国間で相違するのは、 資源賦存量のみである。 ほとんど全てが同じで、 ただ一点のみが相違することによって貿易が成立するというモデルは、 確かに天才的な発想であろう。 それぞれが保有する資源を用いて生産し、 それを輸出すれば、 自国と世界の経済の最適点が導かれる(Krugman and Obsfeld: 『国際経済』〈石井・浦田・竹中・千田・松井訳、 新世社〉を参照)。 石油や石炭をもつ経済は、 それらを生産し輸出することによって、 自国と世界の厚生を増加させる。
さて、 このようなモデルがあるとき、 日本経済にはどのような資源があるのだろうか。 日本経済が唯一保有する資源は、 人的資源である。 個々の人的資本の能力、 それらを活用する組織のみが、 日本経済の保有する資源である。 人的資本については、 ノーベル経済学賞(1991年)を受けたベッカーの 『人的資本』 (佐野陽子訳、 東洋経済新報社) が記憶に新しい。
このような条件のもとで経済政策を打とうとすれば、 日本経済に関して、 政策の方向はどこに向ければ良いかを考えなければならない。 しかも公共投資は、 次世代の物的・人的遺産を形造る。
ここで日本経済にある条件を、 もうひとつ挿入しておかなければならない。 日本経済の民間部門 (家計と企業) は、 現在においても超過貯蓄である。 政府はなにを為すべきか、 読者のご判断をまちたい。 先端産業発展への人的資本の育成、 未来の日本経済の資源のために。 政治には、 壮大な構想と決断が要求される。
もっとも公共財に関し、 無駄な投資(「公共財の限界効用<私的財の限界効用」)を避けたいというのは経済学の念願であり、 また政治的には行財政改革となる。 これには、 建設期間の長さ(未来に関する予測の困難)と、 都市と地方の扶助体系との問題が発生し一定の困難を伴う。
さて、 上記のごとく、 貿易理論の文献を読むとき、 現実の私たちの世界を念頭にすることが望ましい。
またリスクは何についても存在するが、 直接投資のそれはやむ得ないものとしても、 対外金融債権のリスクも一考を要する。
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また先の貿易理論では、 要素価格の均等化という命題が導かれる。 資源的に土地の狭い日本は、 土地を大量に用いる生産物(農畜産物や鉱産物)を輸入している。 それらのお陰で日本の地価は、 この程度に安い水準ですんでいると解釈する方が良い。 現在の生活水準を維持しながらそれらの農畜産物を自国で生産するとすれば、 地価は驚くべき高い水準になるであろう。 この命題は、 方向性として現実に作用している。
しかしそれは完全には現実化しない。 それを妨害する諸要素があるからである。 もし要素価格均等化が完全に現実のものとなると、 為替相場は全ての財とサービスについて購買力平価仮説が妥当する筈である。 しかし長期的に為替相場は、 貿易財について購買力平価仮説が妥当しているというのが、 経済学者たちの見方である。
話がここまで来ると、 人々はなぜお盆や正月などに海外旅行に大量に出かけるのであろうか。 海外を経験したいという選好体系それ自身の問題はあるが、 海外へ旅行する利益が消費者を誘因している。 北海道へ行くより、 ハワイ等へ行く方が相対的に安いという経済的誘因である。 現実の為替相場は、 旅行者が楽しむ全ての財やサービスで測った購買力平価と比べると、 遙かに円高である。 貿易財に関して、 円は十分に高く評価されている。 海外旅行にも、 経済学が必要となる。
貿易理論という抽象的な議論は簡潔ではあるが、 大きな現実を彷彿させる。 その意味で経済理論は、 俳句のようなものである。 その抽象力が、 経済学の魅力なのであろう。
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近年で読んだテキストとして感心した著書に、 Barro and Sala-I-Martin: Economic Growth (1995,McGraw-Hill)があった。 そこには多数の経済成長に関する文献が述べられている。 なかでも Uzawa 教授の 「物的・人的資源」 の水準が経済成長を決定するモデル("Optimum Technical Change in an Aggregative Model of Economic Growth", International Economic Review, Vol.6, No.1,1965)が分かり易く説明されている。 例えば戦争などで物的資本が破壊されたとき、 十分な人的資本が用意されていると、 物的資本の建設のために高い経済成長が可能になるというモデルである。 それは、 高度成長期の現実を想起させる。 しかし日本経済の技術水準が、 欧米の水準になると、 成長率は低下することになる。
しかし今後の日本経済について、 どのように考えればよいか。 特に人的資本に関して、今後の日本経済の成長を如何にすべきか、 その発想の基礎となるであろう。 無資源経済の今後は、 それを如何に処すべきか、 それが問われている。
経済学について書くことは色々あるが、 ここで述べたいことは、 以下のことである。 上記では経済学を例にとったが、 著書については、 文章の書き方としては、 俳句の世界が理想的であるように思える。 短い文章で、 自然と人的環境、 人間の知性と感情の壮大な風景を呼び起こすことができれば、 理想的である。 それは、 自らへの叶わぬ願いでもあるが。
さらに、 一般的に論文では、 最初に要約が述べられる。 世界中で多数の優れた論集が発表されている。 個人が読むには、 それらの数は無限大に近い。 読者はそれぞれに自らの関心をもっている。 要約は、 そのための導きである。 著書については、 その 「はしがき」 がその役割を演じるであろう。
モデルは、 現実をいかに抽象し簡潔な命題に仕上げるか、 それを読む人々に大きな現実を想起させることが使命となるのであろう。 抽象力の作業が、 経済学には問われている。未来への解のために。
古典的な名著作を連ねていくと、 現状の理解と困難の打開の途を教えてくれるように思える。
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もっとも、 論争については留意することも必要であろう。 経済学では、 ケインズ派と新古典派との理論的相違はある。 著者のものの考え方はそれぞれあるが、 その (思想的)相違と 「仮定―推論―結論」 という理論の相違とを区別することは必要である。 考え方の相違は、 理論では仮定の設定の仕方に現れる。 しかしそれらは仮定の設定を明示すれば、 理論上の齟齬は発生しない。
たとえば成長経路について、 それが不安定であるか安定であるかは、 両派の議論の対象のひとつである。 それは、 ケインズの 「美人コンテスト」、 ハロッドの 「ナイフ・エッジ」、「群れ行動」 等、 景気の波動に関する研究は、 今後も絶え間なく続けられるであろう。
しかし均衡成長経路に関しては、 両派の理論に差違は認められないようである。 それはUzawa: "Neutral Invention and the Stability of Growth Equilibrium" (Review of Economic Studies, Vol.38, 1961)によって証明されている。 効率単位で測った労働(ある一人の労働者が、 基準点からつぎの時点で二倍の生産性増加を得ていると、 その労働者は二人として計算される)で考えると、 差違は消滅する。
また、 新古典派(Barro and Sala-I-Martin)のEconomicGrowthでは、 ケインズ派(ハロッド)の中立的技術進歩を受け入れている。 両派は、 論理的に妥当なものに関して、 接近の度を深めている。
それぞれの理論家の努力の成果に依拠し、 しないでも良い論争は避けるのが望ましい。
これに関連しては、 今回のバブルもそうであるが、 人々はなぜあの様に愚かしい行動をとるのであろうか、 市場のシステムや企業内組織は短期的にも有効か、 その改善の方向はどのようなものか等の市場と組織の安定性に関する研究が必要となるであろう。
上記の 「群れ行動」 仮説(Scharfstein and Stein: "Herd Behavior and Investment", The American Economic Review, Vol.80, No.3, 1990) では、 組織のなかの経営者の効用関数に、 「他の経営者が成功しているときに自分が失敗すれば評判が低下する、 多くの他の経営者が失敗するとき自分が失敗しても自らの評判は低下しない」 という要素が入ると、 なにが生じるかを問うている。 それぞれの経営者は個人情報をもっているとしよう。 市場が買いの動きのとき、 個人情報(売り)を放棄して、 買いに回る経営者が発生することになるであろう。 それは、 市場を動かす。
それは、 個人投資家の行動ではない。 経営者が取り扱う資金は、 預金者、 被保険者などの組織の信用によって集めた他の人々の基金である。 それは、 企業という組織のなかの経営者の行動に関している。 企業内賞罰のシステムを含め、 今後バブルの発生を減少することは可能であろうか。
市場と企業が合理的に機能するための、 組織と個人の行動原理が求められる。 それらを支える政治と行政の在り方も題材であろう。 解を求めて、 経済学には考えることが多々あるようである。
こうして仮説の構築とその検証がなされるであろう。 人々の行動は果たして短期的にも合理的であろうか、 またはそのシステムの改善は可能であろうか。 抽象的に述べれば、 短期に関し予想の安定性の議論は、 今後も続けられるであろう。 その結果として、 経済政策の必要性など、 議論がなされるであろう。
(大阪経済法科大学経済学部教授)
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