歩く・見る・聞く――知のネットワーク
アール・デコの館と名画とのハーモニー
―東京都庭園美術館を訪ねて―
松井 昭代
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。
(萩原朔太郎作 『純情小曲集 旅上』 大正14年発行)
目黒白金台にある東京都庭園美術館は、朔太郎が夢見た大正末期頃のフランスで一世を風靡したアール・デコ様式をそのまま残しているというので行ってみた。それは期待通りアール・デコの館だった。 現代人は新しい背広を着ずともフランスに行けそうだ。
美術館への道は平成から大正へのタイムトンネルのようだった。目黒駅からビルが建ち並ぶ歩道を首都高速2号線に向かって歩いていくと、木々が生い茂った森が見えてくる。首都高速や目黒通りを走行する車の喧噪を避けるように森に入る。門扉から美術館までの樫や椎の木立の下を歩くうちに心がだんだんと落ち着いてくる。このゆるやかな道程がこの地を訪れた者を無理なくアール・デコの世界にタイムスリップさせてくれる。
このアール・デコの館が美術館になったいきさつも興味深い。この館は1933年 (昭和8年) 浅香宮鳩彦邸として建てられたという。当主浅香宮鳩彦陸軍中佐は明治天皇の第八皇女と結婚し、大正11年フランスに留学。ところが翌年思いがけず交通事故を起こし、妃殿下とともにパリで長期療養をすることとなる。当時のパリを中心としたヨーロッパは植物をデザインしたアール・ヌーボ調が飽きられ、実用的で単純・直線的なデザインを特徴とするアール・デコと呼ばれる装飾様式が流行していた。パリに暮らす両殿下は1925年開催のアール・デコ博覧会を見学、斬新なデザインに魅了されて帰朝する。そして浅香宮邸を建てるときには壁紙やシャンデリア等をフランスから直輸入し、日本に唯一のアール・デコの館を完成させる。 そして戦後の一時期、外務大臣公邸、 迎賓館として使用され、1983年(昭和58年)、東京都庭園美術館として一般に公開されるようになった。
簡素な二階建ての白い洋館が美術館である。白壁に近代性を感じながら車寄せから玄関に入ると、アール・デコの代表的宝飾デザイナー、ルネ・ラリック作の女人像が4体、女神のような翼を広げて来館者を迎えてくれる。乳白色のガラスは豊かな胸ときゃしゃな姿態の女神が孔雀のように羽を広げている様子を浮き彫りにしている。館内のライトを背後に受け、優美に浮き出ている女体に緻密で精巧な芸術性を感じる。このガラススクリーンの素晴らしさが来館者に建物の中の様子をより一層期待させる。
玄関ガラスの女人像の次は、大広間横に置かれた天井にとどきそうに高く優美にそそりたつ塔に圧倒される。これはフランス国立セーヴル製陶所作の香水塔で、黒大理石の水盤の上に白磁の発光器がワラビ手型に見事な曲線を描いている。パーティのときに香水塔の水盤には花が活けられ、頂部のワラビ手型には香水がふりかけられ、ライトで温められた発光器が香水を芳しく匂い立たせてパーティを盛り上げたという。美術館として開放される前には幻のアール・デコの館と呼ばれ、 神秘なベールに包まれた建造物だったという話に納得する。
訪れたときの展示は 「華麗なる馬たち――馬と人間の美術史・バロックから近代まで」。客間、食堂、浅香宮・妃殿下や若宮の部屋に名画が架けられている。部屋一杯に大きな絵が展示されているときには感じなかったが、アール・デコ調の壁に架けられた小品の名画を見ているとフランスの貴族のサロンで芸術の粋を鑑賞しているよう錯覚する。鑑賞者と美術品とを遮るガラス越しにしか芸術品を鑑賞できない所では味わえない、作品とその鑑賞空間との間の調和に今までにない満足感をおぼえる。この美術館では建物と美術品とのハーモニーを是非味わってもらいたい。
(明星大学出版部)
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