読書の周辺
「人間通」の原敬
玉井 清
1、「人間通」ということ
原敬は、近代日本政治史上、有力政党であった立憲政友会(以下、政友会と略す)の第三代総裁に就任するとともに、同党を率い大正中期に、我が国最初の本格的政党内閣を成立させることに成功したことで知られている。しかも、原内閣は、原が暗殺されるまでの三年余に亙り続き、明治憲法体制下の内閣の中では、歴代四位に位置する長期政権となった。
今春上梓した拙著『原敬と立憲政友会』(慶應義塾大学出版会、A5判、390頁)は、その原が伊藤博文、西園寺公望の後を継ぎ、政友会の第三代総裁に就任してから、政権を獲得するまでの時期、すなわち大正期の第二次大隈重信内閣、寺内正毅内閣、原内閣の三内閣の時代を考察の対象とし、彼が政友会を率い政権を獲得するためいかなる戦略と戦術を展開したか、また獲得した政権を維持するため自党をいかに指導したか、いかなる施策を実行に移したかを検証したものである。
右に述べたように原は、政治権力の頂点に登り詰めることになるが、そこに至るまでの道のりは順風満帆であったわけではない。とりわけ、政界及びその周囲には、政党勢力の影響力拡大に批判的な元老、軍部、官僚、貴族院、枢密院が割拠し、原の政権獲得に障害となることが予想された。原が、こうした障害を乗り越え政権を獲得し維持することができた理由は種々考えられるが、ここでは彼が優れて「人間通」であったことに焦点を当て、その理由の一端を明らかにしてみたい。
因みに「人間通」という言葉は、私淑している谷沢永一氏が、その著書の中で、あるいは著書の題名としてしばしば用いているものであるが、これを私なりに定義すると、次のように言うことができる。それは、人間の本性に通じ、人間の行動の深層に潜む動因を見抜く鋭い眼力を持っていること、また、その眼力を人間社会を生き抜く知恵として活用できる人物のことをいう。
原が、膨大な量と質を兼ね備え、明治から大正の政治史研究に必要不可欠な日記を書き残したことは、よく知られている。そこには、原自らの行動はもとより、彼の下を訪れた人物と、その人物がもたらした政界情報、さらにはそれらの情報に基づく彼の政界観測が克明に記されているが、その『原敬日記』を読むと、彼がいかに「人間通」であったかを看取することができる。ここでは、拙著の中で言及した原の非政党勢力への接し方を敷衍補足しながら、原がいかに「人間通」であったか、そしてそのことが非政党勢力の懐柔に、ひいては彼の政権獲得と維持にいかに寄与したかについて紹介してみたい。
2、山県有朋への工作
原が政権を担当する前後の大正中期、元老山県有朋は、実質的なキャビネット・メーカーであり、軍部、貴族院、官僚などの非政党勢力に対し多大な影響力を持つ政治家であった。『原敬日記』を読むと、その山県が政友会を含む政党の勢力拡張を快く思わず、これを阻止するために種々工作を行っていたこと、さらに原がそのことをしっかり認識していたことがわかる。それゆえ原は、山県の言動に対し常に警戒を怠らず、たとえ山県が自分に対し好意的言動を示したとしても、絶えず猜疑の目をもってこれを受け止めていた。
しかし、原は、このように山県に対する不信と警戒の念を内心強固に抱き続けながらも、山県との関係改善に努め積極的に接近していった。それは、原自ら山県の下に足を運ぶことにより、あるいは側近を山県の下に向かわせることにより、逆に原の下を訪れた山県の側近を活用することにより行われ、山県への情報伝達を欠かさず、意志疎通に努めたのである。さらに注目すべきことは、それが政権獲得前後を通じ一貫して行われていたことである。一般に権力者は、権力を獲得するまでは周囲に対する配慮とお世辞を欠かさぬものであるが、一度権力を握ると周囲が見えなくなりがちである。しかし、原はこの権力者の弊に陥ることはなかった。「人間通」の原は、政権の座に就いた自分が、従前に増し反感や嫉妬の対象になることを、そしてそれこそが自分の政権を脅かす最も危険な因子になることを熟知していた。政権獲得前後における原の山県に対する接し方を見ると、そのことがわかる。
原内閣誕生を実質的にまた最終的に決定した山県と西園寺との会談の席上、西園寺は、山県に対し、原は政権獲得後も山県の支援を必要としているので、従前通り原への助言を続けてくれるよう懇請していた。一方、その会談直後に西園寺は原に対し、山県は今後も原の接近を望んでいるので山県の意見も聞くよう忠告していた。そして、原はこの西園寺の忠告を忠実に守り実行に移したのである。例えば、組閣に際しての陸相人事の相談及び組閣後の挨拶はもとより、パリ講和会議の全権委員の人選、帝国議会開会前後を通じての政府の予算や内外政策の方針について、原は山県に相談している。もっとも、それらの殆どは、自分の内案を持ち山県の了承を得るためのものゆえ相談を仰ぐというより、政府の方針を情報として伝えることに重点が置かれていたといってもよい。しかし、その情報伝達にこそ、多大な意味と意義があることを原は知悉していた。
政界に隠然たる影響力を持っていた山県ではあるが、当時既に80歳を迎える高齢の身の上になっていて、健康上の問題もあり政界の表舞台からも次第に退きつつあった。このように人生の終盤を迎え、日に日に孤独感を深めていたであろう山県の下に、政局の要所要所において政権担当者である原から相談を兼ねた情報が伝えられることは、山県の自負心を十分満足させたであろうことは想像に難くない。このことは、前政権の寺内正毅内閣末期、山県と寺内との間に生じたさざ波を見ると、理解がより容易になる。すなわち、寺内内閣末期、山県は寺内が、自分のところにあまり相談も報告もしなくなったことに対し不満を洩らしていた。同じ長州軍閥出身で自分の子飼いと考えていた寺内が、政権を握ると次第に距離を置くようになり不満を募らせていた山県にしてみれば、自分とは対極に位置すると考えていた政党党首の原が、政権獲得前はもとより、政権獲得後も変わらずに接近し自分との意志疎通に努める姿勢をとったことは、山県の原に対するより一層の歓心を呼び起こしたことは間違いないところである。これは、政治理念や政策とは異なる次元の人間関係の機微に関することであるが、それが人間社会を動かす重要な鍵になることを、政治の世界も例外ではないことを原は知悉していた。
こうした原の「人間通」としての面目躍如たる側面は、山県以外の伊東巳代冶や田健治郎に対する身の処し方からも看取することができる。以下、簡単に紹介してみたい。
3、伊東巳代冶への工作
周知のように伊東巳代冶は、伊藤博文の憲法調査の渡欧に随行したことからもわかるように、明治憲法作成に際しては伊藤の側近として活躍し、井上毅、金子堅太郎とともに「三天王」と呼ばれたこともある人物であった。1857(安政4)年生まれの伊東は、30歳になる前に既に政治権力の中枢に参与し、脚光を浴びる位置にいたのである。これに対し1856(安政3)年生まれの原は、伊東より一つ年上ではあるが、伊東が既に政治権力の中枢に参与していた明治憲法発布前後の時期は、新聞記者を経て官界に歩みを進めたばかりのころであり、外務省、農商務省において官僚生活を送っていた。すなわち、実質的な明治憲法作成者の側近として政治権力の中枢に参与していた伊東は、新聞記者上がりの一官僚として政治権力の外周に位置していた原を、その経歴においてはるかに凌いでいたといえる。
しかし、その後、両者の立場は逆転することになる。すなわち原は、政友会の有力幹部から総裁になる一方、重量級の閣僚である内相に三度も就任した後、首相の座に登り詰めたのである。正に権力の外周から時間を経るに従い中枢に接近し、自らそれを担うことになったのである。これに対し、伊東は、枢密顧問官等になり政界に影響力を保持し続けるものの、枢密院に政治を主導する権限や役割が与えられていたわけではなかった。伊東が権力の中枢から外周へと次第に離れていったのとは対照的に、原は権力の外周から中枢へと歩みを進め、両者の立場は逆転することになったのである。
このように政治権力の階段を登り自分をはるかに凌ぐ頂点のポストを射止めた原に対し、伊東が少なからぬ反感と嫉妬心を抱いていたであろうことは想像に難くないが、「人間通」である原は、このことを明確に自覚し、伊東への警戒と配慮を怠ることはなかった。
原内閣は発足当初、小選挙区制の導入を骨子とする選挙法改正を念願としていたが、衆議院議員選挙法は憲法付属の法律であったため、その改正のためには枢密院の賛同を得る必要があった。大正デモクラシーの気運が高揚していた当時にあって、枢密院の反対についてはそれほど懸念する必要はなかったかもしれないが、原は主要な枢密顧問官に出来る限り事前に了承を得る配慮を欠かさなかった。近来枢密院内で孤立がちであると見なしていた伊東に対しても、思いがけぬことから反対の挙にでるかもしれないので、これを防ぐためにも事前に話を通しておくことが肝要と考え、これを実行に移していた。原は、伊東との会談当日の日記に、伊東は事前相談を受けさえすれば満足すると考えていたが、実際その通りであったと記していた。そこには、伊東の面子を立てる配慮が、効果覿面てきめんであったことに対する満足感が滲み出ている。伊東には山県ほどの影響力はなかったが、右に紹介したような従前の経歴から生じる伊東の原に対する嫉妬心には、特別の警戒と配慮を必要としたのである。
4、田健治郎への懐柔工作
前寺内正毅内閣の逓相で山県閥の有力貴族院議員であった田健治郎への原の対し方にも、同様の配慮を伺うことができる。原は、政権発足の約一ヶ月後、田の為にわざわざ小宴を設けた。この席には、山県や田の側にいて情報伝達係を務めていた松本剛吉が招待されるとともに、政府与党側からは彼らに近い横田千之助も同席した。こうした出席者の顔ぶれを見れば、それが田との意志疎通を今後も積極的に進める原の意志表明であるとともに、田への協力要請を目的としていたことは明らかである。政治や経済についての話がかわされたこと以外に会談内容の詳細は不明であるが、ここにおいて重要なことは、政権の座に就いた原が、田のことを軽視せず早々に小宴を設け招待したこと、さらに田との意志疎通を積極的に行う姿勢を示したことである。それは、山県や伊東の場合と同様、田の自負心を十分くすぐり満足させたであろうことは想像に難くなく、以下紹介するように、その効果は貴族院だけでなく衆議院の政府案審議にも発揮されることになる。
例えば、田は、前出した選挙法改正案の成立過程の中で、衆議院貴族院の両方において、鍵を握る人物の一人であった。まず、衆議院において、原が率いる与党政友会は、第一党ではあったものの、過半数を占めてはいなかった。第二党に憲政会、第三党に立憲国民党と続いたが、両党は政府案に反対することが明らかであったため、法案通過のキャスティングボートを握っていたのは、無所属系議員であった。そして彼ら無所属系議員の少なからぬ者が、前内閣下の総選挙において田の世話になっていたのである。すなわち、前回総選挙に際し、政府の選挙対策責任者の一人であった田は、山県の三党鼎立の理想実現のため、政府系無所属候補の擁立を積極的に推進し、彼らに対し金銭援助を含めた支援を行う役割を担っていたのである。そうした経緯があるため、田は彼らの指南役的存在であり、実際、該改正案をめぐりいかなる態度を取るべきかについて相談を受けていた。これに対し田は、政府案に賛同するよう助言していたのである。
また、貴族院において、田は茶話会に所属する有力議員であった。拙著の中で紹介しているように政友会が貴族院の中で提携工作の対象としたのは、貴族院最大会派の研究会であり、同会の協力が原内閣の政権を安定させた。これに対して、勅撰議員が多く所属する茶話会は、保守的で反政党的色彩が強く原内閣に対して好意的とは言い難く、原内閣の直接の工作対象ではなかった。しかし、議会における採決結果をみると、茶話会は反原内閣で結束できず分裂傾向にあったことがわかる。同会の有力議員であった田は、時には病を押してまで登院し、政府案への協力を要請する説得活動を貴族院議員に対して行っていたが、茶話会が反原内閣で一枚岩になれなかった一因として、こうした田の説得工作を看過することはできないであろう。
以上のように、田は原内閣に対して好意的姿勢を示し続けたが、その契機として先の会談の持つ意味は大きかったのではないかと推断できるのである。山県、伊東に対するのと同様、「人間通」である原のかかる配慮が、非政党勢力の原内閣に対する反感を緩和させ、政権を揺さぶる行為を極力抑制させたといえる。
(慶應義塾大学法学部教授)
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