読書の周辺

ブリティッシュ・ライブラリーの
片隅で


澁谷 浩


 知的好奇心に、そう欠けているとも思わないのだが、それにしては博物館と私の関係は密なものとは言い難い。少年時代、明治維新関係の展示物を集めた小さな博物館に時折訪れたことがある。下関という土地柄だけに、維新と時代はずれるが、乃木大将ゆかりの遺品も陳列されていた。それが戦争中の私の少年期に接した唯一の博物館であった。何しろ、その地方にはそれしか博物館はなかったし、美術館に至っては皆無であった。そういう文化施設とのつきあいの薄い生活を大人になっても続けてきたのは、少年期の習慣によるのだろう。
 私の住んでいた田舎町にも市立図書館はあった。ここには足繁く通った。終戦直後の殺伐とした時代にあって、図書館こそが少年の世界を覗き観る望遠鏡であり、夢を養い育てる温室であった。図書館の建物の構造、係員の顔、椅子の坐り心地、そして新しい本を借り出した時の心踊る期待感が昨日のことのように思い出される。ただし私には帰巣本能が発達しているというのか、妙な癖があって、図書館の中では館外貸出し禁止の本は読むけれども、そうでない本は取替え引替え借り出しては家で読むのである。そうしないと読んだ気がしない。この点は大学に入っても卒業しても教師になっても変わらない。

 ただし大学の教員になって間もなく、私の読書歴には大きな変化が起きた。修論を書く時から、私の専攻は17世紀イングランドのピューリタン革命思想史と決めていた。修論を書く段階では、現代になって出版された資料集で間に合わせたが、大学の学術雑誌に論文を発表するようになると、到底それでは済まされなくなる。ピューリタン革命期の1640年代の急進派だったレヴェラーズ(こんな表記の仕方にまで流行はやり、廃すたりがあるもので、私が駆け出しの研究者だった時分は平等派とか水平派とか「訳して」表記したものだ)の指導者格の人物、ジョン・リルバーンを最初の対象とした。それはPauline Gregg のリルバーンの評伝Free Born Johnの巻末に彼の著作のビブリオグラフィーがあり、それに収録された著作のほとんどにブリティッシュ・ミュージアム(B・M)図書館の書架番号が付けられていたからである。私はB・Mに手紙を書いて蔵書のマイクロ・フィルムを依頼する方法を教わり、グレッグを参照しながら手当り次第フィルムを注文した。ある時、注文したフィルムがなかなか到着しないことがあった。正確な日数は忘れたが、とにかく通例の日数の倍になっても届かない。しびれを切らした私はB・Mの理事長ブリッジウォーター卿に宛てて催促状を書いた。この家名は何かで読んだことがある。何でも相当な旧家で、貴族の家柄らしい。新米の専任講師が、貴館の怠慢は小生の研究に多大な不便を与えている、とか何とか利いた風な文句を言える相手ではないのだ。しかし効果はてき面だった。私の手紙がロンドンに着いて間もなく発送したと思われるB・Mの小包を、私は間もなく受け取った。
 グレッグの資料表の書架番号は、リルバーンの著作のほとんどがThomason Collection に収録されていることを示す。トマソン・コレクションはB・M図書館所蔵の大コレクションの一つで、書籍商ジョージ・トマソンがピューリタン革命期のロンドンで出版された書籍・小冊子・新聞等二万二千余点を購入して作り上げた文庫である。グレッグの資料表には載っていない本まで手を延ばさねばならなくなったので、トマソン・コレクション目録のリプリント版を得てレヴェラーズ以外の著作者の著書をも注文した。その内、B・M図書館では増大するマイクロ・フィルム・コピーの仕事の繁雑さに耐えられなくなったのか、B・Mへのコピー注文はアメリカのユニヴァシティー・マイクロフィルムという会社に発注する制度に切り換えられた。ところが、この会社に注文すると……いや、まあ余計な不平は言わないでおこう。
 マイクロ・フィルムはマイクロ・リーダーで読むのが一番手取り早い。しかし、ある図書館でマイクロ・リーダーを使おうとして係員に注意されたことは、根を詰めて読んではいけません、30分読んだら5分休むくらいのつもりで読みなさい、そうしないと気分が悪くなりますよ、ということであった。まったくその通りで、それがマイクロ・リーダーの第一の不便さである。第二に、ある本の最後の一ページを参照しようと思ったら、リーダーの把手をぐるぐる廻し続けなければならない。運動になっていいのかも知れないが、時間のかかることおびただしい。そういうわけで、マイクロ・フィルムから学校の費用で堅牢に製本された本を作って貰った。それを何年も続けるうちに、私の研究室はピューリタン関係の原典のちょっとしたコレクションを備えるようになった。このコレクションの中から私の学位論文「清教徒革命における平等派の理念」が生まれた(それにしても何と古臭いタイトルを付けたものか)。

 レヴェラーズが1640年代の急進派なら、第五王国派が50年代の急進派である。前者の研究が一応終ったら後者をも分析して、合わせて一冊の単行本にしよう、と私は計画した。レヴェラーズなら、その名前からこのグループの主張は何となく見当がつくように思われる。多分、財産の平等化か何かを主張したのだろう、と。レヴェラーズというのは反対者から付けられた仇名であり、仇名としては正にそういう意味であった。けれども、仇名を付けられた側はロンドンの中小企業者のグループであり、プチブルとして失うべき財産を持っている連中なので、この仇名を言われなき誹謗として嫌悪した。彼らは言わばプチブル的急進派であり、信仰の自由(国教会制の廃止)、政治の自由(選挙権の拡大)、経済の自由(組合規制の排除)を主張した。
 第五王国派となると聞いただけでは何のことだかわからない。ピューリタン革命前夜の改革派の人びとに共通する歴史観があった。それは前近代と近代との二つの思潮がぶつかり合って大渦を引き起こす17世紀に相応しい歴史観であった。旧約聖書ダニエル書に、世界史は四つの王国の興亡を経て神の国に至る、と語られる箇所がある。その最初の王国はバビロニアであるが、他の三つについては特定されていない。それを、あるピューリタンの神学者がメディア、ギリシア、ローマと並べて、ローマ教皇制が健在であり、教皇制のイングランド版であるアングリカニズム(イングランド国教会制)が残存している現代はなお第四王国ローマの圧制下にある時代だ、と断定する。そこから第五王国たるキリストの王国の準備をしなければならない、という主張が出てくる。その準備というのは国教会主教らの教会権力およびそれと結託している世俗貴族らの専制を倒し、貧しき聖徒らの独裁制を樹立させねばならぬ、という一種の革命思想である。革命が始まったばかりのころは、この思想が改革派を一つに結びつけていたが、内戦の進行とともにその色は褪せ、50年代には第五王国派と呼ばれるセクトの専売特許にまで収縮していた。しかしレヴェラーズが力尽きた後の急進的改革派として、政治権力の中枢近くまで浸透して共和国政府を脅かす活躍を示し得たセクトであった。
 勤務先の大学では在外研究員の順番が私に廻って来ようとしていた。この機会を逃がさず、英国の、ロンドンの、B・Mの図書館に赴いて集中的に第五王国派の資料を読み込もう、と私は思った。

 1970年3月30日に私は東京を発ってロンドンに向かった。私はブリティシュ・カウンシル(B・C)支援の研究者ということになっていたが、B・Cによる研究支援は下宿探しから教授紹介から研究旅行の旅程表作成から、何から何まで到れり尽くせりで、何かにつけて文句ばかり言っている私も、兜を脱いでお礼を申し上げなければならなかった。家族を連れて行ったので下宿探しに手間どり、到着後10日ばかりしてから、B・Cの紹介状を貰ってB・M図書館に駆けつけた。B・Mの玄関を入ると広いロビーがある。それを真直ぐ突切ったところに、守衛がたむろしている小さな入口がある。これが図書館の入口で、守衛に入館証を見せて入る。短い廊下を行き着いてもう一つの入口を入ると、写真でお馴染みの丸天井を頂いて拡がる円形の大閲覧室だ。しかし私が目指すのは17世紀の古い本だから大閲覧室を通り抜けて廊下に出、その突き当りの部屋に入る。これがノース・ライブラリーと称する稀覯書閲覧室である。6、70人も入れば満員になる狭い矩形の部屋だが、円形大閲覧室が出来るまでは、ここが唯一の閲覧室だったそうだ。カウンターに頼んでトマソン・コレクションの数冊を借り出した。紙は粗末だが破損はまったく無く、仔牛の皮と思われる皮革で厳重かつ豪華な表装が施してあるのは意外だった。しかも表紙には国王ジョージ三世のネームが入っている。それらの本を目の前に並べて、しばし私は手を付けることが出来なかった。家に持って帰らねば熟読できないなどと言う文句も影をひそめた。
 昼食にはカフェテリアがあると聞いていたが、行って見ると単なる喫茶室で、しかも大変な混みようだった。次の日からサンドウィッチの昼食持参で朝から夕方まで図書館通いが始まった。昼食は正面玄関を中心にコの字形に拡がった柱廊の蔭のベンチで食べる。観光バスが何台も何台もお客を運んで来る。時折りバスから降りた団体客がすぐに玄関を入らないで、建物を背景にす早く並んで記念撮影をしてサッと入って行くのは日本の観光客だ。そういう光景を見ながら食事を終えると私はまたノース・ライブラリーに戻る。
 B・M図書館には隠れたロンドン名所がある。K13番の座席(大閲覧室の)で、マルクスはこれを定席にして資本論を書いた、というのだ。もっとも座席番号には幾通りもの伝説があるのだが、K13番にそっと坐って見ると、それは部屋の隅っこで人通りも少ないし、気難しいマルクスには相応しい席だという気がする。ジョージ・ギッシングに『ヘンリー・ライクロフトの手記』という創作的エッセーがあるが、若き日の主人公(作者とオーヴァーラップする)は、飢えに耐えつつひたすらにB・M図書館で古典に沈潜する。夏目漱石の留学中の先生クレーグはシェイクスピア研究のためB・M図書館に通い詰めるべく、ウェイルズのある大学の教職を投げ打った。S・R・ガーディナーは大学の背景は何もないまま、ひたすらB・M図書館に立て籠もって革命前史10巻、内乱史4巻、共和国史4巻の大作を著した。ガーディナーのような人がいないかと、時おり私はあたりを見まわした。
 夏休みが終るころ、私は第五王国派研究の中間報告を書き上げタイプ印刷にしてB・Cの紹介状を副えて幾人かの研究者に送った。しばらく日を置いて私は彼らを順ぐりに訪れ、論文について忌憚のない意見を徴した。初対面の異邦人に遠慮のない意見を告げる人はさすがにいなかったので、私の試みは失敗した。しかし後日長く交際できた同学の士を得たのは望外の仕合わせであった。

 B・M図書館は、その後間もなくミュージアムから独立してブリティッシュ・ライブラリーと呼ばれるようになった。閲覧室は元のままであるらしいが、書庫はセント・パンクラス駅の隣りに広大な敷地を購入して飛躍的に拡大された。新書庫と旧閲覧室の間には小さな地下鉄が設けられて、図書類は大変なスピードで運ばれると新聞で読んだが、真偽のほどは定かでない。もう一つの変化は、余人は知らず、私には大きな変化である。1年の滞在期間を終って5、6年後のことだろうか、トマソン・コレクションが全部マイクロフィルム化され、約500万円で手に入れられるようになったことである(その価格は今ではもっと下がっているようだ)。私の当時の勤務先の大学でも早速購入した。これでトマソンに接しようとする研究者は、はるばるロンドンまで出かけなくても済むことになったのであろうか。フィルムが全て現像され製本されること、英国の碩学が全て日本に移住して研究生活を続けること、これら条件がみたされさえすれば、答は然りである。
(聖学院大学政治経済学部長・教授)



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