読書の周辺
経済学の時間・ヒトの時間
吉田雅明
「恒久平和なんて人類の歴史上なかった。だから私はそんなもの望みはしない。―中略― 要するに私の希望は、たかだかこのさき何十年かの平和なんだ。だがそれでも、その十分ノ一の期間の戦乱に勝ること幾万倍だと思う。」
田中芳樹『銀河英雄伝説1』よりヤン・ウェンリーの科白
お上、理不尽!
経済学は社会科学の中ではとても奇妙な学問だ。社会科学は社会の振舞いのメカニズムを解明し理解しようとするものだが、経済学にはそういう気がないのではないかと思えるフシがある。そう考えるヒネクレ者は結構いるのだけど、根拠は人によっていくつかある。たぶん一番ポピュラーなのは、人間行動に関する想定の非現実性だろう。
経済学という科学は、最適化行動と(市場)均衡という2つの概念をハードコアとしている。これは一般均衡理論の頃もゲーム理論全盛の昨今も変わらない。しかし最適化とは可能な選択肢集合の中からその主体の効用関数を最大化する選択肢を選ぶことだ。これは2、3種の商品の数量の組合せから最適なものを選ぶときにはごく当たり前の主張にみえるが、塩沢由典氏が強調するように20種、30種(コンビニでもはるかに多くの商品群と対面する)ともなれば、その組合せ数は指数関数的に増加し、生物はおろかコンピュータでさえ手におえるシロモノではない(近似的最大化でよしとするなら、今度は需要関数が一意に定まらなくなる)。それを人間行動のモデル化の基礎におくなんて、ナニカンガエテンネン、というわけだ。
そこを理想気体みたいなものとかいって目をつぶり、各主体は全価格情報をもとに全ての商品についての需要・供給量を表明し、それらが全て等しくなるように価格調整が行われた状態を一般均衡状態と定義するだけならまだしも、現実がそこに向かうと考えたり、得られた実データをその反映と考えたりする性向を経済学者はもっている。モデル上の一般均衡の存在・安定性証明は実に立派なものだけど、素直に考えれば、もし一般均衡にいたる前の取引がそれぞれの主体の判断で本当に実行されてしまうと、想定された一般均衡へと状態が向かう保証はどこにもないことは想像がつく。(価格が動かずに取引可能数量情報だけが蓄積する数量調整タトヌマンでも同様である。)
一般均衡に向かうためには、ゴミ箱にティッシュを投げて外れたらもとの位置から入るまで投げるというように、当初の状態が繰り返し可能でなければならない。つまり、行為に関して時間が可逆的であることがモデルの前提になっている。時間が可逆的なら、先ほどの計算量の問題もなんのことはない、計算時間は無限に取れるので能力が有限であってもかまわないことになる。(ここですべての想定の非現実性はどうでもよい、よい予測が出せれば−出せないくせに−それでよい、というM・フリードマンの有名な非哲学的な議論があるのだが、不毛なので触れないでおく。)
そんな奇妙な時間構造をもつ経済学に反発する人は昔からいて、J・ロビンソンは、歴史的時間(不可逆的時間)こそケインズ革命の核心だとして、変えることのできない過去とまだわからない将来との間の現在において意思決定を行う人間を捉えることが大切だと大見得を切って、これはこれでファンがいるのだが、やった仕事が歴史的時間を一貫して取り入れた体系とはいえなかったし、いかんせん、圧倒的な新古典派勢力の前には歯が立たなかった。
そうはいっても、時間の可逆性を暗黙の前提とするのは、経済社会を実システムとして取り扱う気があるならば、やはり相当ヘンなことだ。実システムというのは、現実的な構成要素による具体的なメカニズムによってシステム全体が無理なく動作する、現実的に構築可能なシステムをいう。処理に関して時間の可逆性を前提したいならば、システムの外部にリセット機構を設け、リセット前の状態を評価する外部記憶装置をおき、構成要素に行動修正シグナルを送ってやり、設計者の想定しない状態にシステムが陥ったならばリセットをかけるようにしなければいけない。これを外部の関連装置を含めたリソースをいささかも消費することなくやりおおせなければ、近年のマクロ経済学者のよくやる手段、不合理性による排除、なんてことはできないのだ。これはまっさらに効率的なシステムを閉じた状態下に作ろうというのならまだしも、現存の経済システムの振舞いを理解するために、制御可能な外部システムなんてアテにせずに、記述的にシステム・モデルを作るつもりだったら、まったくもっておかしな話だ(と、筆者は思うのだが、経験上、同意してくれる経済学者は稀である)。
実システムを扱う経済学
気を取り直して、マトモな経済学の基本設計上の要件を考えてみよう。まず、構成要素にとってのリアルタイム・コンストレイント。構成要素にとってみれば、行動の際の情報処理時間も、タイミングも限られている。それに経済社会くらい巨大な実システムの複雑さの前には、能力だってしれたものだ。だから処理に先立って必要な情報もシステム全域について要求するわけにはいかず、身の回りのローカルな入力でよしとするしかなく、それも有意味な計算時間で行う必要があるからいくつかの大小判定に還元できる程度の処理でなければいけない(定型行動もしくは満足化行動)。つぎに、システム全体にとってのリアルタイム・コンストレイント。そんな部品から成り立って動きだしても簡単にはつぶれない、頑健性をもったシステム・モデルでないと、経済社会の分析に役立たない。
では、実現のための手立ては如何に。
このようなシステムが破綻をきたさずに運行できるためにまず必要なのは、なにはさておき構成要素単位で持つ処理バッファである。自動車のような機械系を考えてもすぐわかるように部品にあそびがなければたちどころにシステムは崩壊する。システムの頑健性の秘訣は、ルーズ・カップリングであって、ファジィの元祖ザデーが不適合性の原理として強調したように、価格情報に対して最適化行動をとるとか他の主体の戦略に対して最適反応するとかいうような打てば響く主体から成り立ったリジッドなシステムで最適制御を目指したのではダメなのだ。
もちろん、システム全体の効率性という観点からすれば、バッファはあればあるほどよいというものではない。しかしバッファを通常水準以下に抑えるためには、その主体を含むサブ・システムの意識的な設計・制御が必要である。これは企業組織内ならばまだよいが、そのための合意形成が難しければ現実的ではない。また、システムが不安定なときに構造を維持するにはバッファをより多くとらなければいけない(昨今のセーフティーネット論議はシステム運営の観点からはこのように理解できる)。
ところで、構成要素がバッファを持っていたらそれでOKというわけではない。何のためのバッファかというと、各構成要素がそれぞれ自律的に動いても破綻をきたさないためであった。要素が中央指令を必要とせず、それぞれの判断で動作できるというのも、このシステムのよいところだ。中央指令がかつてのソ連で夢見た政府による統制であれ、ワルラスのオークショニアーであれ同じことだ。経済社会というシステムの規模・複雑さに鑑みてそれを中央制御するというのは現実的ではない(ワルラスの御伽噺とかゲームの利得表とかがいかに中央集権的であるかは、それがどのようにして動作するシステムであるのか、システムマップを描いてみればわかる)。構成要素がローカルな情報に基づいて自律的に動きうることがシステムに柔軟性を持たせて、崖っぷちに追い込まない秘訣である。
では、システム全体の頑健性はどうやって保証すればよいのだろうか。それにはニューラルネットが大きなヒントになる。こんな部品同士が単一階層に配置されている相互結合ネットワークを考えてみよう。もっとも簡単な文字認識システムのように、これは安定点を含む多平衡系となる。平衡といっても最適化平衡ではもちろんなく、単に各要素が調整行動を起こさないというだけの意味しかない。頑健性はそれでいいとして、社会の状態がいずれかにとどまるだけじゃモデルとしてつまらないという不満も出るかもしれない。それは先にも触れた、各主体の自律的な調整の結果、定型行動の基準を変更させる主体が増えてくれば、システムの平衡マップ自体が大きく変容することになる。
かくして裏街道の経済学の基本設計は、バッファをもった定型行動を行う異種多数の主体が構成する並列処理系となる(これをかつてプロセス集積体系と命名したけど、残念ながら流行らなかった)。
ちょっと練習問題
ではそれで経済学はどう変わるのだろうか。
たとえば入門マクロの一節(ここは同種類の定型的行動をとる人々を、消費財生産企業家群、給与所得家計群、等々と束ねることができるものとして読んでほしい)。マクロ経済学はやたらと均衡条件を羅列するばかりでどのように具体的に動作するシステムなのか説明しないため、非経済学者には評判が悪い。通常、有効需要の原理は財市場の均衡条件とされるが、貨幣市場、労働市場、と均衡条件が並べられていくうちに、財市場の均衡といっても、独立な需要関数と供給関数のクロスで決まる均衡解という話ではないことがすっかり忘れられてしまう。もともとケインズが描いたことは、売上によって生産調整を行う消費財生産企業家群と、生産水準にリンクした雇用水準によって決まる所得から一定パターンで消費支出額を決めている給与所得家計群の行動を組み合わせたものだった。これは資本財生産部門の生産水準が途中一定であるならば、45度線図が教えるようにいかなる初期値からはじめようとも大局的に安定的に一定値に収束する。けれども資本財生産部門の生産調整行動を考慮し始めると経路によって収束先が異なってくる。さらに消費財部門の調整のあそびを考慮すると、システムの安定バンドは増加する。資産家群の行動もいれると行く方と経路は複雑さを増す。このような相互作用系を視野に入れてみると、政策の決定に今でも引き合いに出されるIS−LMは、システムのダイナミクスをほとんど把握していないことがわかる。意味のある政策を行いたいならば、初期値の把握、各部門のマクロ行動パターンの把握が急務であり、全域・全変数の長期間制御など高望みせず、ローカルで短期の制御を可能とする社会工学を確立しなければいけない。
ものの見方について、たとえば結婚。結婚式では今でもよく年長者の(新郎側の)祝辞に、「内助を得てますますの仕事の発展を」、なんていうのがある。新郎が期待効用最大化の意味で合理的に行動し、かつ、その計算根拠となる確率分布に客観性があるならば、まあ妥当な発言かもしれない。けれどそれはチャンチャラおかしいことぐらい―妻が献身的であるのが当然だった都合のよい時代の人、もしくは個人的に超ラッキーしている人はいざしらず―大体みんなわかっているはずだ。社会科学的に正しくは、「君は十分なバッファを持つまでに成長したから、あ、もともとバッファぎりぎりの仕事なんてしてなかったかもしれないから、結婚くらいで仕事が破綻することはない。おめでとう。それはときに負担かもしれないが、幸いにして人間の効用関数には一貫性なんてないから、それがまた幸せに思えてくることもあるぞ。よかったな。」というべきだ。
最後に、冒頭の引用のこころを。「長期的に」という経済学者の大好きなフレーズがある。それは理論的な経済学者だったら非最適化状態がより多くクリアされた状態のことをいったり、そうでない人なら理想状態の単なる表明だったりするのだが、経済システムのダイナミクスを理解し、社会工学としての経済学を構築するつもりがあるならば、「長期」なんてことは目の前の「短期」の積み重ねでしかないことははっきりしているだろう。良心的に言えるのは、われわれはローカルでうまくいってせいぜい数年までのシステム制御機構を提案できるかどうかなのだと思う。長期的な最適化均衡なんてこのシステムでは望むべくもない。われわれの希望はたかだかこの先数年までの改善なのだ。それでも根拠のないモデルに基づいて空想を語りつづけるよりは勝ること幾万倍とはいわないけど数倍くらいはあると思うのだが、どうだろうか。
(専修大学経済学部教授 yoshida@isc.senshu-u.ac.jp)
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