歩く・見る・聞く――知のネットワーク17

京都の「戦争遺跡」を歩く
―近現代史を発掘・記録する新しい方法―

鈴木 哲也


 ■「軍都」としての京都

 一五年戦争と日本の都市・地域とを結びつけるとき、真っ先に思い浮かぶのは、普通、広島、長崎そして沖縄であろうか。体験によっては、大空襲を受けた東京や大阪を想起する人もあろう。一方、京都ほど戦争のイメージとかけ離れた町はない、と多くの方は思われるに違いない。戦争末期、日本の主な工業都市は悉く空襲を受けたわけだが、今でも「京都に空襲はなかった」と信じている人も多い。
 実際には私の知る限りでも、京都市域も含め府下40カ所以上が、1945年1月から8月にかけて攻撃を受け、346人が死亡、600人以上が負傷している。1回の被害が最も大きかったのは、7月29日の舞鶴海軍工廠に対する空襲であり、一発の爆弾で勤労動員の女学生ら97名が亡くなっている(この爆弾は、「パンプキン爆弾」と呼ばれた原爆投下演習用の大型弾であったといわれる)。
 海軍工廠とは、海軍の艦艇や兵器、弾薬を製造した機関であり、日本海軍の拠点機関である鎮守府(他に横須賀、呉、佐世保)に併設されていた。鎮守府は、今の感覚でいえば海上自衛隊総監部であるが、もとよりその規模は遙かに大きい。一方、陸軍の戦略単位は師団である。戦時は数多の師団が編成されたが、平時は17、京都には現在の伏見区に司令部を持つ第十六師団が置かれた(この部隊は南京大虐殺を引き起こし、後にはフィリピンで全滅した)。
 これら鎮守府と師団すなわち日本陸海軍の拠点が、一つの府県に併せて存在したのは、実は広島と京都だけである。当然、それらを支える機関・施設も府内には数多く存在した。また、府下の商工業も膨大な軍需に応えていた。西陣織や清水焼といった伝統産業もまた、例外ではない。一般に、地域に存在する大きな機関(企業、大学、基地等々)は、その地域の文化的雰囲気を形作る。今でも舞鶴等は基地の町としての色彩が濃いが、もちろん戦前の京都にもそうした「軍都」の雰囲気があったわけである。

■ 語られなかった歴史を示す「戦争遺跡」

 このように、ある意味では広島とならぶ軍事拠点であった京都が、米軍の攻撃を免れるはずもなかった。実際、一時期、京都が原子爆弾の攻撃目標都市として注目されていたことも、現在では明らかにされている。
 こうした事実がなぜ広く知られていないのか、あるいは語られてこなかったのかについては、ここでは触れない。ただ、私たちが注意して町を見渡せば、過去を語るものは、実は数多く存在する。一般に軍事施設は、その性格上強固に作られ、そのため完全な破壊や風化を免れる。また、軍関係の土地・建物の多くは国有財産として戦後公的機関に引き継がれ、利用されていった経緯もある。さらに、土地境界を示す標柱等も、大きな開発がない限り、そのまま放置されることが少なくない。このようにして残った一五年戦争関連の遺物を総称して、「戦争遺跡」と呼ぶ。
 写真2は、京都大学宇治構内に残る戦争遺跡であり、日本がアジアの民衆の上に降らせた陸軍の爆薬の開発・製造に関係している(また舞鶴の京大水産実験所には海軍爆薬部の跡もある)。また写真1は、旧陸軍第十六師団の司令部の建物であるが、現在は京都聖母学院の学舎として使われている。こうした建物の他、小さな標柱や鉄道廃線跡等も含めると、京都府下の戦争遺跡は200カ所以上になる。

■ 歴史を知る努力――発掘と保存へ

 歴史を知り、語り継ぐ上での戦争遺跡の役割に注目したのは、京都の府立高校で長く日本史を講じておられた池田一郎氏である。氏は、生徒たちに近現代史を体験的に学ばせることに苦心してこられた。時とともに身近に戦争を体験した者を持たない世代が増え、聞き取りによる学習は難しくなる。そうした中、身近な物に歴史を語らせる日本史の方法を見出されたわけである。そして1970年代の半ば頃から、授業の一環として、生徒らとともに戦争遺跡を丹念に調査してこられた。京都出身でもない、しかも若輩の私が、今住む町の戦災史を多少なりとも学ぶことが出来たのは、ひとえに氏と出会い、導かれたおかげである。
 池田氏は、京都での調査に大きな成果を上げられた後、そのフィールドを全国にまで拡げ、今、「戦争遺跡保存全国ネットワーク」を組織してその運営をリードされている。この運動は、遺物によって現代史を知る取り組みとして、学界でも注目されている。  昨今、一部の論者によって「歴史観」の見直しが云々されている。しかし、どういった立場をとるにせよ、事実を知ることなしにはその議論は空虚であろう。新しい時代を見通すためにも、20世紀がどんな時代だったかを語る町の遺跡を探ねてみてはいかがだろうか。
(京都大学学術出版会)



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