読書の周辺

パリの新国立図書館

高橋 治男


 今年の夏は、所属する学会の会合に出席して今後の活動計画を決定するためにフランスに行き、そのあと資料収集その他の目的で合計2ヶ月間パリに滞在した。友人とふたりでサン=マルタン運河と東駅の間にあるユジェーヌ・ヴァルラン街に小さなアパルトマンを借りて住んだのだが、トルビヤックに新設・開館した国立図書館「BN(ベー・エヌ)」をいつでも利用できる態勢にしておこうと、学会の仕事がまだ終わらないうちに、早速登録をしに行った。
 パリとその周辺の交通網は、新線敷設や延長により年々充実・拡大している。それだけ首都圏の人口集中と外国人の流入も激しいのだろう。今夏も八月にはサン=ラザール駅からほぼ東北東のモーの方角に向かって「エオール(風の支配者アイオロス)」と呼ばれるRERの新線が開通し、北駅と東駅との間の地下深くにマジャンタ駅が誕生した。
 驚いたことに、新しいBNの開館に間に合うように、メトロも14番の新線を開設していた。マドレーヌ寺院からシャトレ、リヨン駅、ベルシーを通って「ビブリオテーク・ナショナル・シット・フランソワ・ミッテラン」を終点とする片道約15分の無人電車。始発駅の次のピラミッド駅はリシュリュー街に近いから、これは新旧のBNを結ぶ線なのだ。もしかしたらこの地下道路を書籍運搬にも利用したのではないかと思いながら、オペラ通りの地下深く下りていった。メトロはやや小型の4両編成で、おそらく上り下りの全体で15台ほどが自動操縦で稼働しているのだろう。ベルシー駅などでは、上下線が車両の前後をぴたりと合わせて同時に停止する。
 建設を企画した前大統領フランソワ・ミッテランの名で呼ばれる新BNの敷地は、ベルシーの対岸にあって13区の東端に位置している。以前オーステルリッツの貨物駅だった場所だから、6番メトロのケ・ド・ラ・ガール駅でおりて歩いてもよい。バスだと62番か89番だが、カルチエ・ラタンから行くなら89番が便利だし、これがいちばん歩く距離が短い。とにかくパレー・ロワイヤルのギャルリーを含む地所よりもひとまわり以上広い敷地なのだから、アプローチの仕方もいろいろとあるわけである。
 この敷地周辺にできた新しい街路や緑地帯には、フランソワ・モーリヤック、デュアメル、アヌイ、ラクロ、レイモン・アロン、アベル・ガンス、ヴァレリー・ラルボー、ジャン・ヴィラールなど、これまでパリでは通りの名に使われていなかった作家や芸術家の名前が付けられている。ここに挙げた名前は、ラクロをのぞけばみな20世紀の人名である。
 新しいBNの設計者はドミニク・ペローであるが、もしかすると最近の駅構内のデザインにも彼が参与しているのかもしれない。あるいは施工者が同じということも考えられる。BNの敷地は、最も新しいRER「エオール」線のサン=ラザール駅やマジャンタ駅の連絡通路の床と同じ造りで、固い白木の木材を張り巡らした広大な舞台となっており、セーヌの流れと対岸のベルシー公園を見下ろしている。その四隅にそびえているのは18階建てのLエル字型、塔状の高層建築である。この4棟はいずれも7階までが事務局の部屋で、それより上は全部書庫になっている。4棟を結ぶ回廊状の建物は、広大な木造舞台の下に隠されており、舞台の中程まで進んで行くと、中央にぽっかりと巨大な長方形の穴があいている。眼下にひょろ長い赤松を林状に植えた中庭や、それを囲む2階建ての回廊棟と内部で動く人影が見えた。そこではじめて「あれが閲覧棟だ」とわかるのである。
 東玄関と西玄関は点対称に位置し、どちらからはいるにしても、いかめしい警備員に鞄の中味を見せたあとで、長いエスカレーターで中庭に面した2階の一隅に下りて行く。リシュリューの旧BNとはまるで違った未来都市の風貌、しかもはるかに厳重な管理体制の臭いがして、機能的ではあるものの人間味の薄れた雰囲気がすでに漂っていた。
 すべてがコンピューター化され、機械化されている。旧BNのカードがあるので、わたしの登録は簡単に処理され、面接のあとすぐに新しいカードを受け取ることができた。登録料を支払い、受付で鞄を預け、必要なものだけを備え付けの書類箱に入れ、利用者カードを使って駅の自動改札のような入口を通過すると、重い扉を2度開き、地の底に向かうようなエスカレーターで30メートルほど下って行く。閲覧室や座席を決めてくれる受付はその地の底にあった。だが、またしても重い扉をふたつ通り抜けると、そこは中庭と同じ平面の、明るい回廊であった。
 回廊沿いの外側に北棟から東と南を経てぐるりと西棟のはずれまで、KからXの閲覧室があり、ひとつ上の階には、同じようにAからJまでの閲覧室があって、各階の両翼の読書閲覧室は原則として内部でつながっている。各室には、パソコンやワープロ用のコンセントと照明付の120席ほどの座席と、閲覧や検索の相談に応ずる受付があり、別の一隅には数台の検索用端末機が配置されている。W室にはさらに約100席のマイクロリーダー席があり、X室にはマイクロフィッシュ専用の席もある。2室単位で奥の部屋にはコピー機があり、印刷はすべて、図書館員に依頼し、費用はあらかじめ購入しておいたカードで支払う方式になっている。
 とにかく最先端の設備を完備しているし、座席数も十分にあって、リシュリュー街のときのように行列をつくって空席を待つ必要がなくなったので、新設BNは、さぞかし便利なのだろうと期待していた。だが、実状はそうではなかった。第一に参照したい辞典類がすべての部屋に揃っているわけではないから、座席の取り方によってはとんでもない距離を歩かねばならない。つまり広すぎるのである。わたしは初日に、自分の使いたいメートロンの労働運動の人名辞典がどこにあるかを調べて、次回にはその近くに席を注文したが、そうすると今度は、別の文学関係の資料からは遠ざかってしまうのだった。
 確かに器械設備は整った。そしてもともと世界最高の蔵書数を誇る図書館である。それは、歴史的には、1537年にフランソワ一世がモンプリエで出した王令のおかげだった。この王令によって、フランスで印刷されたすべての書籍が一部ずつ必ず王立図書館に収められるようになったからだ。もちろん大革命のあともこの規則は守られてきた。しかし世界に誇る蔵書もいまや古くなり、今日20世紀前半の図書までがマイクロフィッシュ化されつつあって、その作業中のものは参照できない。例えば1930年代のWho's who in America は、今回ついにその所在がわからなかった。リシュリュー街では、サル・ド・レクチュールにもペリオディックにも備わっていたはずである。トルビヤックでは、司書たちは誰ひとりとしてその在処を知らずにわたしをたらい回しにした。
 とにかく新BNでは、今のところ文献もその設備もきちんと機能しているとはお世辞にも言えない状態なのだ。失礼ながら、ひとつには図書館員の多くがコンピューター操作の面では技術的に未熟で、いまだに設備を使いこなせないでいるという面もあるのかもしれない。だが一方ではコンピューター・システムの導入によって、使い手は未熟でありながら早くも器械依存の習性を身につけてしまい、いっさいの責任をコンピューター・システムに転嫁する傾向もあるように思われる。
 まず、端末機で検索する方法は、コンピューター操作に慣れていない限り、なかなか大変である。わたしも自分でやっては見たが、ある日期待した結果が得られず、ついにカウンターに並んで司書に相談した。待つこと15分。やっと順番が来て、1928年にバルビュスが創刊した週間文芸新聞『モンド』のマイクロフィルムを注文すると、司書のマダムは端末機で調べて「そんなものはない。『ル・モンド』の間違いではないか」と言う。彼女はバルビュスの名前もこの新聞名も知らなかったので、わたしは説明せねばならなかった。「リシュリューでは何度も参照したことがあるのです」とわたしは言った。最初はわたしの間違いだと思いこんでいた彼女も、ようやく信用してくれたが、それでも「画面に出てこない以上、しょうがない」との反応だ。そのときわたしは気がついた。彼女の背後の書架にかつてさんざん利用した3冊本のペリオディックのカタログがあるではないか。「あれに載っているはずです。」じつはこれで片が付いたわけであるが、図書館員の彼女も不勉強で、第二次大戦以前の文献は、コンピューターに打ち込まれていない場合もあることを知らなかったのである。朝九時に到着して、『モンド』のマイクロフィルムを実際に見ることができたのは、午後3時頃であった。
 1930年代にパリに亡命していたドイツのトロツキー派グループが『ウンザー・ヴォルト』という雑誌を発行していたが、この雑誌に掲載された一論文を必要とするので、新BNで参照要求をしたときのことである。例によって、BNに存在することが判明するまでにかなりの時間がかかったが、とにかく参照可能だというので、予約をしてその日は帰った。翌日勇んで行き、再び待つこと久しく、ようやく反応があったと喜んだのもつかの間、「この雑誌は廃用だから、参照不可能だ」という。「どうしても見たければ特別申請をしなさい」と言われて、理由を添えて規定通りの申請書を書いた。結果は1週間ほど待たされたが、やはり駄目。「破損の度合いがひどいために見せられない。マイクロフィッシュ化も不可能」との返事だった。参照が可能か不可能かも、あらかじめわかるわけではない。誰かが閲覧を要求したときに初めて現物を見て検討されるのだそうだ。この結論を得るまでに、4回BNに通い、長時間待たされている。もっとも、つねにほかにも目的をもって出かけているから、まるまる時間を無駄にしたわけではなかったけれども。
 《アンリ・プーライユ友好学会》と《ヴィクトール・セルジュ研究会》の友人ジャン・リエールと一緒に、日刊新聞『コメディア』の1910年代の紙面をマイクロフィルムで見ていたとき、どういう訳か約1週間分ほどの紙面が完全に欠落していることを発見した。『コメディア』なら、欠号なしの現物がBN分館のアルスナル図書館にあるはずなので、どうしてこのような不完全なマイクロフィルムを作成したのか訳がわからない。きっと作成時に担当者がうっかりとばしてしまったのであろう。フランスではよくあることである。わたしたちはしかたなく日を改めて、今度は《プーライユ学会》の事務局長でBN職員のパトリック・ラムセイエールと一緒に、アルスナルで『コメディア』の現物を参照せねばならなかった。じつはBNにはパトリックのような優れた学者がたくさんいるのだが、それはこの話とひとまず別である。
 BNの名誉のために報告しておくが、古い定期刊行物のマイクロフィルム化とその不備の修正は、ゆっくりとであるが、進んではいるのだ。わたしがすでに日本で入手していた『モンド』のマイクロフィルムは、かなりのページにわたって破損やしわや汚れで読めない部分があったうえに文字列も波を打っていたけれども、今回トルビヤックで参照したフィルムでは、あらたに保存の良い紙面を発見して撮り直し、差し替えてあったので、これまで不鮮明だった部分を完全に読みとることができた。フランスでは時間が猛烈にかかるけれども、とにかく完璧に近づく歩みをやめることはないらしい。
 頻発するマイクロリーダーやコピー機の故障など、新図書館の現状に対する不満を数え挙げれば、きりがないであろう。器具の故障が起こるたびに、いつでもその処理にとりかかるまでに膨大な時間がかかっている。パトリックの話だと、開設前の昨年冬には、排水溝がうまく機能しなかったために、1階の床がしばらく水浸しになっていたと言う。1階にはセーヌ河の水位よりも低くなっているのだ。また電気回線の故障で書庫から閲覧室へ書籍を運ぶトロッコが、1週間近くもストップしたこともあると聞いた。
 わたしのフランス人の友人たち、その多くは20年代、30年代の研究家であるが、彼らは「トルビヤックには行きたくない」と言っている。とりわけコンピューター端末機による検索に慣れていない世代の研究者は、新BNには近づかない。ありがたいことに彼らがとくに利用するサル・ド・マニュスクリはトルビヤックに引越しせず、いまでもリシュリュー街に残っている。
 辞書類を参照するため位なら、新BNには行かぬ方がよい。もし1970年代以降の定期刊行物を調べるのだったら、あまり時間を失うことなくかなり的確に成果を得ることができるだろう。しかしわたしのように、1930年代を対象として調査をする場合は、いまのBNでは時間がかかりすぎる。あの図書館には待たされに行くようなものだ。おそらくあと10年も経てば、20世紀の作品のマイクロフィルム化やマイクロフィッシュ化も進み、現物は無理でも中身だけはすべて参照可能な時代がくるであろうし、コンピューター・システムのなかで現在機能していない部分もその頃は完全に動いているに違いない。しかし、その頃までわたしは待っていられそうもない。かりに待てたとしても、その頃は何一つ現物では見ることができないというあらたなゆゆしい問題が生じているに違いない。どうやら、リシュリュー街の、それもあの懐かしいサル・ド・マニュスクリのなかで、わたしのBNでの勉強の時代は終わっていたようである。
(中央大学教授)



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