読書の周辺
「諦念の悟り」の文化
日本人は理科が好きか?
松田 良一
高速増殖炉「もんじゅ」のナトリウム漏洩事故、東海村の核燃料製造施設における臨界事故、度重なるロケットの打ち上げ失敗、山陽新幹線のトンネルコンクリート崩落事故など、わが国の科学・技術の実力と技術者のモラルに疑問を抱かせる事件が相次いだ。
一方、教育界では「理科離れ」、「理数系の学力低下問題」が表面化してきている。1995年に実施された第三回国際数学・理科教育調査(The Third International Mathematics and Science Study(TIMSS)、小学校3・4年、中学校1・2年、高校3年生を対象とした学力調査)では日本は成績は良いものの、「理数系科目を好きな生徒の比率」が参加46カ国中、最下位から2番目であった。1996年のOECD報告書では「一般市民の科学技術に関する知識をもっている市民の割合」や「科学技術に対して関心を持っている一般市民の割合」が調査した先進14カ国(G7を全て含む)中、最下位であった(データは『日本の理科教育があぶない』305−334(学会センター関西 1998年刊)風間晴子「国際比較から見た日本の『知の営み』の危機」より引用)。
さらに、昨年12月に公表された第三回国際数学・理科教育調査の第二段階調査(TIMSS-Repeat: 略称TIMSS-R)で日本の中学2年生(5000人)を対象とした「数学や理科に対する意識」においても、4年前に比べてそれらの教科への退屈感をもつ生徒の割合が数学7%、理科3%増加し、「数学あるいは理科が生活の中で大切だと思う生徒の割合」が数学、理科ともに9%減少し、「将来、科学を使う仕事につきたいと希望する生徒の割合」も数学では6%、理科では1%減少している。
もともと日本人は理科好きなのだろうか?
この質問にはそう簡単には答えられない。質問の設定に問題があるとも言える。しかし、敢えて私は、日本人は理科好きではなかったという立場で議論を始めてみたい。
私事にわたり恐縮であるが、私の実家は曹洞宗の寺院である。生まれる前から将来の職業が決まっていたことの理不尽さにさんざん悩まされながら、大学卒業後の半年ほど、私は住職資格を取るべく僧堂に入って仏道修行の生活を送ったことがある。そこで、経文を読み、何度か高僧といわれる人と生命についての問答を交わす機会を得た。じっと座っていると次第に草木の気持ちが分かるようになるのが座禅の心だという。仏典いわく「禽獣草木みな同じ」。
ある時、私は寺の高僧(後の鶴見山総持寺副住職)に言ってみた。「生物学ではDNAの遺伝情報はコドン表という動物も植物も共通の暗号ルールで書かれていることが1960年代にようやく見つけられた。つまり「禽獣草木みな同じ」を科学的に証明することができたわけです」。私は高僧がそれを聞いて、やはり仏教は正しかったな、と喜ぶと思ったが、彼は意外なことを答えてきた。「今頃になってようやくそれがわかるとは気の毒に。仏教ではそんなことは2500年以上前に直観で分かっとるわ」。
日本に曹洞禅を伝えた道元禅師は「春は花 夏ホトトギス 秋は月 冬ゆき冴えて涼しかりけり」という歌を残している。「本来の面目」という題がついているこの歌は、この宇宙の森羅万象の変化をすべて肯定的に受け入れる静かな心のありようを詠んでいる。疑い、悩み、怒りを抱かず、運命に従う。そこに安らぎを見出す。その「諦念と悟り」が仏教の真髄であるという意味らしい。
寺での生活は、ただ朝早くから黙々と経を唱え、疑問を持つ心を殺して、ただ修行に励む。「威儀即仏法」といって古来からの教え通りの形に従い、経文の意味など詮索せずにそのまま受け入れる。まさに諦念である。孫悟空でお馴染みの三蔵法師らが天竺から膨大な仏典を持ち帰り、中国の僧たちはその意味を理解すべく、膨大な仏典の漢訳作業を行った。その一つが今読まれている「般若心経」である。
しかし、その漢訳された仏典を日本に持ち帰った当時の学僧たちは漢語に堪能であったためか、それを自国語に翻訳せず漢文のまま理解し、これを唱えた。時代を経るに従い、漢語を理解しない僧が大勢を占めるようになっても諦念をよしとするためか、自国語で経文を読む習慣は現代に至るまでほとんどない。解釈を始めれば、それは仏教哲学であって、宗教ではないと言わんばかりである。
同様に、道元以後もわが国では「本来の面目」を認識の到達点とし、四季の発生機構に疑問を投げかけ、それが地軸が公転面から23.5度の傾きによって生じることに行き着いた人はいなかった。「禽獣草木みな同じ」と仏典から学んでも、そこから出発して分析的実証的に生命理解に至ろうとした人もいなかった。
どうも、この傾向は現代の日本人もあまり変わってはいないのではないか? 解説や議論を軽視し、自らの研鑽と悟りによって学を深めることをよしとする姿勢は日本の文化とも呼べるもので、いまの理科系大学院教育においても主流である。口語でしつこいほどの解説を加え、徹底的な議論を重んじる西洋の文化はアメリカの理科系大学院教育にはっきりと見ることができる。
もう一つの例を挙げたい。話は江戸時代後半のこと。当時の鎖国政策の唯一の免除地区であった長崎の出島ではオランダ人たちがたくさんのヨーロッパの書物を持ち込んでいた。その本を見る機会を得た一部の日本人は好奇の眼差しで眺めたのだろう。
いま、私の手元には2冊の古ぼけた本がある。一つは『紅毛雑話』(オランダざつわ、森嶋中良著、1787年)という、日本に初めて顕微鏡を伝えた書物として有名な和本。もう一冊はその『紅毛雑話』のミコラスコービュン(顕微鏡)の章に引用されている『自然の聖典』(オランダ人、ジャン・スワンメルダム(1637−80)の生物、とくに昆虫の詳細な形態学的記載。1737年出版)の原本である。
その『自然の聖典』にはさまざまな生物が実に多様で精緻な構造を持つことを示し、昆虫に限らず、蛙や蛾の観察・解剖、蛙の卵の発生過程や、筋肉収縮の前後で筋肉の総体積が変わらないことを示した実験など、数々の興味深い事柄が記載されている。その中には蚊や蠅の見事な顕微鏡観察図がある(図1)。その図をそっくり模写したものが『紅毛雑話』の数ページを飾っている(図2)。森嶋の伝えた『紅毛雑話』はオランダ人からの奇聞を当時の日本人に伝えた書として有名になった。しかし、西洋自然哲学(科学)の知見を伝える類書とともに、これらがきっかけとなって、日本において近代的実証科学の萌芽と体系化に至らなかったことは残念ながら事実である。和算や本草学など日本独自の展開をみせた分野もあったが、今日の自然科学の発展につながったとは言い難い。
図1 |
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図2 |
明治になって、日本政府は近代化政策のもと、ヨーロッパの先端的学者たちの一部を「お雇い外国人」として日本に破格の高給で招き、また、優れて理解力の高い日本人学徒をヨーロッパに留学させ、当時の近代科学の先端を受け入れようとした。その頃のヨーロッパの学問はすでに分化が進み、哲学から倫理、文学、科学への分化は言うに及ばず、自然科学も物理学、化学、生物学などに分かれ、さらにそれらの領域も細分化が進行しつつあった。いや、その100年以上前にすでに百科全書派による学問諸分野の鳥瞰的整理を必要とするまでに学問の分化は進んでいた。アメリカの大学における最高学位は今でも学問分野を超えて一様に哲学博士(Doctor of Philosophy)と呼ばれ、学問のルーツが共通であることを示す名残りを止めている。科学は文化の一つであるという認識がその背景にあるのだろう。
わが国は既に分化をほぼ終了した段階の学問諸分野を別々に習得した。持ち前の吸収力と勤勉さで、近代学問が共通のルーツから発しているという歴史的必然性を持たないまま、これらの分化した諸学問を身につけてきた。応用に結びつくものなら何でも吸収し、それらを立国の礎に使ってきたわけだ。
戦後の復興期においても、工業の発達を促すための技術とそれを支える自然科学は、やはり、ルーツを問わなくても十分に吸収され工業生産を拡大することができた。お陰でわが国は未曾有の経済成長を遂げるに至り、物質的繁栄は世界のトップクラスにあるとも言える段階になってきた。
しかし、それまで深い意味など分からずとも、ただ唱えていればよかった経文であったが、今日ここに至ってそのルーツや哲学の理解なしには進めない段階に入ろうとしているのではないか。
問題は教育である。高校では生徒たちをその早期に文科系と理科系に分け、理科に弱い文科系生徒と文科に弱い理科系生徒を大量生産している。さらに現行および平成14・15年から施行される中学校と高校理科学習指導要領により、授業時間数や科目数、そして学習内容の大幅な削減が進みつつある。ミニマム化した教科内容により、かえって分かりにくい教科書を作り、結果的に生徒たちに内容を面白く理解させるより、ますます丸暗記することを求めることになる。そうなっても日本の子供たちは、相変わらず、すでに出来上がった概念や知識の吸収に励むだろう。
「威儀即仏法」で済ませ、教えられた形のまま受け入れる。諸学問のルーツに言及することなく、哲学のない不均衡な理科教育を長年にわたり行ってきたことが、技術の信頼性低下や「理科離れ」をもたらしたのではないだろうか?「諦念と悟り」の文化は、自らの頭脳で課題を見出し、徹底的な議論と実験による検証を命とする学問にはそぐわない。私には「諦念と悟り」の文化は「理科離れ」の根源と深く結びついているように思える。
こんなことを書いていると絶望的になってくるが、私は一方では、もしかしたら「諦念と悟り」が救いになるかも知れないと密かに思っている。科学や技術は結果的に人の生命や生活を脅かすこともある。それに対して「諦念と悟り」は人の幸福とは何か、という西洋の近代科学や技術にない視点を提供し、物質やエネルギー消費を抑えて高いQOLを追求する新しい生き方を提起する可能性があるからである。
さらに「諦念と悟り」は生命の多様性など、地球上の複雑系システムを考えるうえで新たな視点をもたらす可能性もある。日本人の「諦念と悟り」の文化が21世紀の学問の発展に別の視点から貢献することを期待したい。
追記:私共は高校と大学教育の接続問題を主に理科教育の立場から議論する「高等教育フォーラム」という団体を作っております。ホームページ
(URLはhttp://matsuda.c.u-tokyo.ac.jp/forum/)
もご覧になり、お考え・御意見をご投稿願います。
(東京大学教養学部生物学 助教授)
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