歩く・見る・聞く――知のネットワーク19

淀屋橋界隈から全国へ
緒方洪庵の「通信教育」と活動

大西 愛



 大阪のメインストリート御堂筋を東に入ると適塾がある。江戸期の町屋を蘭医学者緒方洪庵が塾として使った小さな建物である。内部の見学ができ、資料の展示もある。


自由な学問

 1838年に洪庵は塾を開き、ここから福沢諭吉、大村益次郎らをはじめ幕末期に活躍した人々が出たことはよく知られる。西洋の新知識を求めて集う若者は、記録されているだけで600人以上、実質2000人を越える。北海道から九州までその分布は、全国をカバーする。
 適塾の学風は大阪のこの地域に影響をうけている。塾の開かれる100年以上前から、すぐ西側に懐徳堂という町人学校があり、四書五経など儒学の基本をわかりやすく教えていた。「商売を勤めるうえで、あるいは日常の生計を立てるために役に立つこと。書物をもたないでも聞いてよい。中途退席も可。貴賤貧富を問わず同輩であること。」という学則は、身分社会の時代としては異色である。
 もともと大阪は、武家・官僚社会の江戸とはちがって、町人や農民が自由に学問を愛好することができた。そのために、道徳を教える懐徳堂でさえ学問の向かう方向は多様で独自のものがあった。1772年に豊後から出てきた医者の麻田剛立は、そんな風潮の大阪にきて懐徳堂から歩いて10分ほどのところに学塾を開いた。天文学を好んで観測をしたり、「ケプラーの第三法則」と同様の法則を考え出している。懐徳堂の先生である中井履軒は何にでも興味を持ち、その麻田塾へよく出入りしていた。そこで人体解剖を見学して見たままを『越爼弄筆(えっそろうひつ)』と題して解剖図の挿し絵まで描いている。また、天体図を調べてボール紙でつくった模型作品は今も懐徳堂記念会に残っている。そこには知を得る喜びにみちていてほほえましい。
 また東に数分行くと薬の道修町(どしょうまち)として当時からにぎわっており、国内産に加え多くの東南アジア産の薬品類を一手に扱っていた。今も薬会社が並び、その守り神である少名彦名神社境内に最近、道修町資料館ができた。薬業仲間の古文書が大量に保存・展示されている。
 こんな隣近所の自由な空気の中で洪庵と弟子たちは医学に限らず常に新しい科学を求め世界を見ようとした。幕末期になると洪庵は英語の必要性を弟子たちに説いている。


知識から行動へ

 1796年イギリスでジェンナーが種痘法を発見してから日本へ何度か持ち込まれたが、今とちがって人から人へ植えつないで絶やさないようにしなければならないので困難を来たした。1800年代の半ばになって、やっと長崎から京都へと種痘の「タネ」のうけ継ぎに成功したことを知って、洪庵はさっそく大阪での普及をはかって種痘所を開いた。しかしこの事業が、子供たちの命を奪う天然痘の予防であることを人々に認めてもらうのがまた至難のことであった。実際にひとつひとつの効果を得てやっと理解がえられていくのである。その事業は1849年−68年までの間に地方へと広がっていく。大阪除痘館の支所として許可・登録されている医師名の一覧には、徳島、香川、島根、鳥取、広島、伊勢他168人の許可年月日と所在地があり、その様子が手に取るようにわかる。
 1858年、日本全国に流行したコレラにより死者が多く出、洪庵は予防のためのテキスト『虎狼痢治準(ころりちじゅん)』を大急ぎ100部絶版で出版し、流行した地方に住む門下生や治療に困る医師たちに配り自らも治療に駆け回っている。その活動は今でいう予防医学と公衆衛生学であり、それに保健所の普及相談業務を一手に引き受けているわけである。
 このように教育は塾だけに終わらず、洪庵から塾生へ、塾生が地元へ帰って師となり門弟へとその地域への普及につとめている情報交換の様子は、洪庵と門下生の往復の手紙に見られる。残されている手紙だけでも140通を越え、これらの手紙をすべて解読された梅溪昇氏の言をかりれば、「今でいうたら通信教育とか生涯学習ですねぇ」。
 現在、東京地方のテレビでは手塚治虫のマンガ『日だまりの樹』をアニメとして放映している(大阪でも放送してほしい)。この主人公は、適塾を卒業して江戸に住んだ実在の門下生手塚良庵がモデルである。良庵は手塚治虫の曾祖父に当たる。また今年は、日蘭交流400年記念イベントで紹介されるので見学者が多い。建物は奥行きの長い古い町屋の形式を残しているため、喧騒のオフィス街にあっても座敷にすわれば静寂が得られ、見学者は適塾時代の空間に浸ることができる。懐徳堂の碑や除痘館跡の銘板は今も同じ界隈に残っている。
(大阪大学出版会)

適塾
大阪市中央区北浜3丁目3-8
地下鉄御堂筋線淀屋橋下車すぐ
開館時間:午前10時−午後4時(日・月・祝は休館)
TEL:06-6231-1970

大阪除痘館の銘板
適塾のすぐ南

懐徳堂跡の碑
適塾より徒歩2分

道修町資料館(少名彦名神社内)
TEL:06-6231-6958



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