読書の周辺

読書ノートを執る意味

石塚 正英



1 読書ノート執りは思索の端緒

 読書ノートを執るという行為はすでにして思索=創作=執筆の端緒であるということ、これが私の著述活動の基本である。以下に、例として1968年の秋頃に執った或るメモを引用しよう。
 「じゃ、自分の考えなんてそっとしておけばいいでしょう! なぁに、愛しておれば、思想なんて問題じゃありませんよ。僕の愛している女が、僕と同じように音楽を愛していたって、それが僕にとってなにになるでしょう! ぼくにとっては、その女こそ音楽なのです! あなたのように、愛し愛される可愛い娘があるという幸運にめぐまれたら、彼女は自分の好きなものを信ずるがいいし、あなたはあなたで自分の好きなものをなんでも信ずればいいのです。結局、あなたたちの思想には、優劣はないのです。この世には真実のものは一つしかありません。それは、愛し合うことです。」(ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』から)
 このメモを執ったとき、18歳の私は、田舎に暮らす或る女性への炎のごとき恋愛のるつぼに、乱調の美の真っ只中に身をおいていた。そしてまた、ちょうどその頃、一方ではカミュ『異邦人』の非合理を地肌に快く感受し、他方ではジェルジュ・ルカーチ『理性の破壊』における合理で理論武装し、しかもひそかに蠱惑のジュリエットと清廉のジュスティーヌにアンビバレントな好意を抱いて惹きつけられるなど、目標の定まらない思想的自己革命を開始しつつあった。何が成果で何が敗北か、それは、行動しつつも時にはっとしてふりかえる己れの生きざま=轍(わだち)にも、にわかには見いだせなかった。しかし諸関係に凪がおとずれ、しばし静寂をえて読書ノートに一瞥を投げやる佇みにおいて、私はわが身体をもってペンを走らせた紙片に出立や転変、紆余曲折の軌跡を発見したのである。
 私は、20歳から23歳の頃にかけて社会思想史に関連する著述活動を開始した。そして25歳でヴァイトリングに関する最初の著作『叛徒と革命――ブランキ・ヴァイトリング・ノート』(イザラ書房、1975年)を刊行した。その原動力は読書ノート執りである。
 本稿冒頭で記したように、読書ノートを執るという行為はすでにして思索=創作=執筆の端緒である。一見すると似たような作業であるが、他人の文章を剽窃する行為は読書と呼ばないし、その行為によって出来上がった抜粋を読書ノートとは呼ばない。また、私の読書ノートは、忘れないためのメモではない。さまざまな文献中、なにがしか意識にとまった部分を、ほかでもない自分に使い易いような資料や史料として引き出してそこに自分なりの意味を添える行為なのである。そうであるから、引き出すという行為、それは私の創作に含まれることになる。30年前に読書ノートに仕込んだ史料・資料を創作=執筆の目的でいま初めて使うことは、一度ならずある。
 わが読書ノートについて雑誌類で話題にするのは、今回が初めてではない。以前に『週刊読書人』(第2119号、1996年1月)に寄せた「読書ノートを執って二五年」と題するエッセーにおいて一度書いている。その時の反響の一つを紹介する。
 雑誌『エコノミスト』(毎日新聞社発行の週刊誌)1996年2月6日号の冒頭「敢闘言」において、日垣隆という編集人が私の文章に読後感を寄せてくれた。その中で私の読書ノート執りを少々ひやかしてくれた。とはいえ、筆者の日垣隆氏は私と私の読書ノートのことを詳しくは知らないので、私を誤解している。その分、どこか滑稽でもあるから、以下に前半を引用してみる。
 「『週刊読書人』の一月二六日号に、石塚正英という立正大学(いまは東京電機大学――引用者)の先生が、「読書ノートを執って二五年」と題した随筆を書いている。専用ノートを用意したのは二〇歳の時だそうで、最初はフォイエルバッハ『ルドルフ・ハイムに対する返答』から抜粋したらしい。私はてっきり後悔録としてこのような文章を綴っておられるのかと思ったら、そうではなかった。「この読書ノート群は、著述活動における私の力である」。あちゃあ。およそ読書ノートにメモらなければ忘れてしまうような内容は、忘れてしまうべき程度のものなのであり、ノートをつけながら読書すればスピードはガクンと落ち、一冊に何日もかければ理解も浅くなりがちだ。にもかかわらず、読書ノートをもとに論文を捻りだす訓詁学者らによる陳腐で難解な切り張り本は後を絶たない」。
 あの有名な『エコノミスト』誌の「敢闘言」に私のエッセーに関する記事が載ったのは、なるほど、たいへんうれしい。しかし日垣隆という筆者は、あまりにも私の著述活動を知らなさすぎである。事実の背後を確認しないままこのたぐいのお笑いの記事を即興で書いてしまうようなジャーナリストは、とうてい私の相手にならない。週刊誌の記事によくある雑文でなく、思索と実証に支えられた論説を書き上げる著述家は、常に裏付けをとりつつ先へ進む。そのための労力は惜しまない。とりわけ私の場合は、毎年各地でフィールドワークを続行している。机上の学問とは縁遠い。私のそのような活動を、日垣氏は知らないのである。


2 読書ノート執りは執筆活動の源泉

 私は、作家など著述を専門の職業とする人をのぞけば、研究者としては著作の多いほうである。先日、国会図書館のホームページを開いてみたら、私の著作・編集本として28点が確認できた。それは自著の一部でしかない。このところ毎年3点の割合で出版している。研究書の書評は平均で年3、4点は行なう。そのほか、100名以上の執筆者を擁する事典類の編集、700以上の会員を抱える学会の機関誌の編集、20年近く継続し既刊120号をこえるようになった研究誌の単独編集というように、編集作業も数々手懸けてきている。かつて専任教員の職を得ようと或る公募先の大学に業績一覧を送ったら、こんなにたくさん書いているのにまだ就職がきまらないということは、きっと人物に問題があるにきまっている、と思われたほどである。事情を知らぬ者はそう思う。それに対して、事情に通じた者は、生半可に知っているだけに、反転して嫉妬とやっかみでこちらを排除にかかる。業績を悪用して私を人事の当て馬候補に利用した大学もある。
 読書ノートを執る人、いつも新聞記事を切り抜く人、というように私のことを理解する者は、私にとって読書ノートや切り抜きは汲めど尽きせぬ創作の源泉であることを承知してくれている。新聞切り抜きは1974年から継続しているが、この作業もハサミで紙を切るという動作をするため、身体を使う。ペンでノートに書き込むとか、ハサミで切り張りするとか、こうした行為は電子メディアが発達した現在では、現象としてはたしかに陳腐になりつつある。しかし、インターネットを利用して資料を収集し、マウスを動かしてコピーやショートカットをし、あるいはキーボードをたたいて作文したり図表を作成したりすれば、読書ノートや切り抜きと同様の効果はかたちを変えて相変わらず継続できるのだ。


3 著作こそ最大の読書ノート

 いまちょうど『週刊読書人』から一点新刊の書評を頼まれており、読書中である。その新刊は武井勇四郎『チェルヌィシェフスキーの歴史哲学』(法律文化社、2000年)である。本論つまり内容以前に、「あとがき」で一つ興味深い記述にであった。「自分の過去の亡霊が今の変身した自分に付きまとうことがある。自分にとってはとうに過ぎ去ったことなのに突然、手紙や電話であの論文の続きはないのですか、とお寄せいただく。……どうも自分の過去を弔ってやっていないのではないかと識った。本にして供養するのが一番と思った。……内容は一切手を加えずそのままである」。この発言を解釈すれば、本著作刊行の直接の動機は著者の内的なものにでなく、読者からの問い合わせという外的なものにあるようだ。
 初出一覧を見ると、この本の原稿は1969年から1976年にかけて書かれている。1933年生まれの著者は、学生時代にロシア思想に心酔し、やがてモスクワ在住の研究者からチェルヌィシェフスキー16巻全集を送ってもらって感激し、その線で研究テーマを決定し、修士論文「チェルヌィシェフスキーの空想農民社会主義について」(1962年)を書き上げた。論題から察して、著者のチェルヌィシェフスキー読書はマルクス・レーニン主義的なイデオロギーによって方向を決定づけられていたのだった。
 さて、そうしてできあがった論文は、系統立てられて書き留められたものの、著者個人にしてみれば、一種の読書ノート群――抜粋よりも摘要・評注の多いノート――である。著者は、その後にまちうけるマルクス・レーニン主義の運命に身を任せることを潔しとせず、その読書ノートを完成させて著作とし公表することを断念した。1970年前後を境として、内外の思想界・読書界においてロシア思想を読む機軸がドラスティックに変化してしまったからだ。しかし、2000年のこの現状において、著者は、ついに自らの読書ノートに弔いのピリオドをうつ決意を下したというわけである。「内容は一切手を加えずそのまま」なのだから、たしかに弔いの鐘が鳴り響く。
 ところで、葬り去りたいなら、なぜ出版するのだろうか。その理由はしごく簡単である。著者はかつて発表した己れの著作をまったく亡きものとするのでなく、歴史的な証言として今後に存在させるべく遺書としてのこし、その存在を墓碑に刻みたいがためなのである。著者は若き日々に研究した成果を内的には大切に思っている。たとえ活字をノートに書きうつさなかったとしても、かつて続々と発表した論文群は広い意味でチェルヌィシェフスキー全集の読書ノートなのである。
 そのような思いから著作を刊行した例を、私はほかに知っている。一つは恩師の大井正が晩年に復刻した『現代哲学』(世界書院、1987年)と『フォークローアとエスノロジー(原題は「東印度の農耕儀礼」)』(世界書院、1991年)である。いずれも私が編集した。前者は、武井著作と同様、マルクス・レーニン主義との絡みで敢えて再刊したものであり、後者は満鉄調査部時代の原稿をいまさら半世紀ぶりに刊行するという意味で、やはり「歴史的証言」に近い刊行物となった。
 そのほか、私自身の著作でも、2点ほど似たような経緯をたどっているものがある。一つは上に挙げた第一作『叛徒と革命――ブランキ・ヴァイトリング・ノート』であり、いま一つは『文化による抵抗――アミルカル・カブラルの思想』(柘植書房、1992年)である。前者は1970年前後に全国的規模で発生した政治的騒乱の時代に影響され、後者はその反省を含めて、政治の醜さを払拭する文化の可能性に思いをよせる著作である。いずれも、その時々の社会情勢や政治動向と対峙しつつ読んだ図書・文献の読書ノートから成立した著作であるが、前者は私みずから葬り去ってしまった。のちに大幅に書き換えて分量も三倍にして出版したが、書名も違うので、旧著は事実上の絶版である。書き替えた方の新著はアカデミックな装いのもとに別の書名『三月前期の急進主義――青年ヘーゲル派と義人同盟に関する社会思想史的研究』(長崎出版、1983年)で刊行された。また、後者は、当時のソ連東欧社会主義を論敵にして幾つかの雑誌論文として発表ずみだったものである。ところが、その論敵がバタバタと倒れ始め、ほどなく全滅する様相を呈してきた。いま出版しておかなければ、現在進行形で書かれた内容は陳腐になってしまう、という焦りがでてきた。本として出版してもすぐに時代遅れとなるにきまっている著作を、私は急いで刊行したのである。なるほど批判の相手はすぐに滅ぶが、〈文化による抵抗〉という思想は未来に属すると判断したからである。
 こうして、研究者や思想家はその時々に抱く様々な動機・誘因から読書し紙上か脳内かにノートを執り、それをもとに著作を執筆してきたのである。その際、日々の情勢変化の過程で個々の著述目的は陳腐になっても、その準備として行なってきた読書(ノート執り)という作業は、著者本人においてそのすべてが歴史的な価値を減じてしまうということはないのである。その極め付けは、イギリスの民俗学者フレイザーとその著作『金枝編』であろう。彼は言った。たとえ理論が否定される時がきても、本書は例証の宝庫として永久に残るだろう、と。フレイザーの著作こそ、膨大な分量の読書ノートをそのまま13巻の著作(原典)にしたようなものなのである。また、一度出版した自著『グリム童話』の余白にメモを執って改訂版を準備したグリム兄弟も、広い意味で「読書ノートを執る人」と称してよかろう。
(東京電機大学理工学部助教授)



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