読書の周辺
フットボール、昔と今
渡辺 融
シドニーオリンピックの前に
本稿が世に出るのは、廿世紀最後のオリンピック、シドニー大会の「宴の後」になるはずである。今回のオリンピックで、いまのところ(7月現在)目につくのはチームゲーム型球技における日本の凋落である。この種の競技で本大会に日本が出場資格を得たのは、野球、ソフトボール(女)、サッカー(男)の3つだけで、東洋の魔女以来の伝統を誇るバレーボールをはじめ、少年層に人気があるバスケットボール、そのほかにホッケー、ハンドボール等、いずれもシドニー行きはならなかった。不振の原因は専ら高度経済成長時代以降これらの競技を支えてきた企業スポーツの衰弱にあるとするのが大方の観測で、日本スポーツ界の転機到来が云々される所以である。
スポーツ組織の構造改革という観点からすると、百年構想を発表して早々と学校・企業離れ、地域型のスポーツ組織、国際化への志向を表明、推進しているサッカーの活気は旺んである。スポーツの新しい在り方を示唆するものだろう。本大会での健闘を期待したい。
フットボール先進国
さて、フットボール系のスポーツでは日本は後進国であると考えられがちだが、決してそうではない。16世紀後半期に30年以上も滞日し、長崎で没したルイス・フロイス(1532〜97)が日欧文化のアベコベ現象を紹介した『ヨーロッパ文化と日本文化』(邦訳岡田章雄、岩波書店、1991年、原著1585《天正13》年、於肥前加津佐)には、「われわれの間では球戯は手でする。日本人は足を使って遊ぶ」という記述がある。400年前の時点では、ボールを足で扱うことにかけては日本がヨーロッパよりも先進的であったと言えるのではないだろうか。
フロイスが言う「日本人の足の遊び」とは、彼よりもさらに600年も前に清少納言が「様悪しけれど、鞠もをかし」と評した蹴鞠である。フロイスが見たのは、足利歴代将軍の鞠好きに増幅されて、当時全国の武士層に広まっていた蹴鞠の風景だった。彼が天正4年から4年間滞在した豊後の大名大友義鎮(宗麟)も京都の飛鳥井家から蹴鞠の免許を得ていたし、また、同時代、薩摩島津家の重臣上井覚兼の日記(『上井覚兼日記』天正2〜14年、「大日本古記録」所収)には、当時覚兼の邸内に四本懸を植えた正式の蹴鞠のコートがあり島津家の若侍たちが兵馬倥偬の間を縫って盛んに蹴鞠を楽しんでいたこと、また、朋輩の伊集院忠棟が上京の節に飛鳥井家から蹴鞠道の伝書を貰っていたこと等の記事があり、フロイスの観察が確かだったことを裏付けている。
浅草の曲鞠芸
このような事情によって中世・近世の日本でも蹴鞠は結構盛んで、なかには名足もかなりいた。江戸後期の肥前平戸藩主松浦静山(1760〜1841)の膨大な随筆集『甲子夜話』には、天保12年(筆者注 静山の没年)、江戸浅草の奥山で評判だった鞠芸人の曲鞠芸が絵入りで紹介されている(東洋文庫本『甲子夜話』三篇第七七話)。そのなかから目ぼしいものを拾ってみよう。
一 煙草吃(タバコノミ) 鞠を蹴上げながら片手に草盆を提げ、もう一方の手にもったキセルで煙草を吸う。
二 襷掛(タスキガケ) 蹴上げた鞠が落ちてくるところを身体で受け、襷を掛けるように上体の表面に添って鞠を転がす。
三 八重桜(ヤエザクラ) 蹴上げて落ちてくる鞠を、まず肩で受けとめてから腕の方へ流し、次にこれを跳ね上げて額の上で上下させ、さらに頭頂部でも衝いて上下させる。
四 負鞠(オイマリ) 高く蹴上げて落ちてくる鞠を背中で受け止め、其処で上下させる。
五 足袋脱(タビヌギ) 右足で鞠を蹴上げながら、左足の足袋を脱ぐ。
六 文字書(モジカキ) 鞠を蹴上げながら紙上に字を書く。
七 乱杭渡(ラングイワタリ) 地上三尺(約90センチ)の高さで距離2間半(約4.5メートル)にわたって立ち並んでいる杭の列の上を、鞠を蹴上げながら歩いて渡る。
八 下り藤(サガリフジ) 前記七が終わったところで、松の木に両手でぶら下がり、浮いた足で鞠を蹴上げる。
九 梯子登(ハシゴノボリ) 鞠を蹴上げながら階段を上り下りする。
十 八橋(ヤツハシ) 八つに折れ曲がった細い橋板の上を鞠を蹴上げながら渡る。
などで、どれも難度が高そうな技である。
蹴鞠の三拍子、サッカーの二拍子
これらの技は二系統に大別できる。一つは、鞠を足で蹴上げながら何かもう一つ別の仕事をする技である(一、五、六、七、八、九、十)。この系統の基本技は鞠を連続的に蹴上げることで、現代サッカーでいえば、ボールリフティング、あるいは、ボールジャグリングにあたる。
蹴鞠では、地面に落とさず鞠を蹴上げ続け、その回数を数えることを「数鞠」あるいは「数」という。正式の鞠会は時間軸に添って序・破・急三段の順で会の次第が進められ、各段でのプレーの内容は概ね決まっていた。数鞠は最後の急の段で、数を数える役人をつけて行われた。つまり、鞠会の大詰めの種目として、一座8人が協力して記録を狙う数鞠があったのである。蹴鞠道設立の主導者だった鞠好きの後鳥羽院(1180〜1239)は、ある鞠会で鞠数二千余という大記録を作り、喜びのあまり使用した鞠に五位の位を与えたという話さえ残っている(『道家公鞠日記』前田育徳会尊経閣文庫所蔵)。
蹴鞠では鞠を蹴上げる足は何故か右足に限られていた。箸を右手で扱うのが正しい作法であるという観念と共通の文化風土の産物であろう。したがって、一人で続けて鞠を蹴上げる場合、サッカーのリフティングのように歩行と同じリズムで、左・右、左・右と交互に蹴ることはできない。蹴鞠の術語ではフットワークを足踏と言う。連続的に鞠を蹴上げる場合の足踏の要領は次のとおりだった。まず、右足で鞠を蹴上げた後、右足を着地する、次に左足を(挙げて)着地し、しかる後に、右足を挙げて鞠を蹴る。つまり、ポン(右蹴)→トン(右着地)→トン(左着地)→ポン(右蹴)→トン(右着地)→トン(左着地)、… … …、という、日常的な歩行とは異なるリズムの繰り返しになった。これを三拍子と呼んだ。
筆者の考えるところでは、前掲の鞠芸の中では、鞠を蹴上げ続けながら細い杭の列の上を三拍子で渡る「七 乱杭渡」が最高難度の芸と思えるがどうだろうか、ぜひ現代サッカーの名足たちの意見を聞きたいものである。
もう一つの系統の芸は、鞠の落ち際を上体や頭で受け止め、其処でこれを衝き上げて上下させ、また、身体の表面に添ってこれを転がす技である(二、三、四)。
鎌倉時代に成立した蹴鞠道、即ち、公家鞠では鞠足は冠または烏帽子を着けていたから、ヘディングは不可能であった(筆者注 前掲の八重桜にはこれがある)が、肩や胸、背中などで鞠を受け止め、これを身体に添って転がすことは重要な技であった。飛んでくる鞠を、身体でストップし、身体の表側に添って足元まで転がして下し、足先に鞠が乗ったところで蹴上げる技を傍身鞠(みにそうまり)と呼び、蹴鞠では最も高度な技(曲足、曲鞠)としていた。
江戸後期の難波家の当主難波宗城(1724〜1805)が編んだ書物『名足類聚』(天理大学付属天理図書館所蔵)は、飛鳥井、難波、御子左の公家鞠三流の他、賀茂社家や外郎派などの地下流をも含めて、古今・上下の曲足百五十余種を考証したものである。その中には前掲の負鞠(オイマリ)の名があり、御子左と飛鳥井両流の技とされている。しかし、他の二つの芸、すなわち、襷掛けと八重桜の名はどの流派の技にも見当たらない。件の鞠芸人が自ら開発したものだろうか。
蹴鞠の曲足のなかで最もよく知られている「衣紋流し」は、鞠を一方の袖(腕)に受け、そこから襟を経て反対側の袖まで流し転がす技である。本来「流し技」の最終目的は、鞠を足元まで流し下して足先に乗ったところでこれを蹴上げることだったはずなのだが、衣紋流しの場合には、むしろ、流す過程を見せるのが目的だったらしい。襷掛けや八重桜もこれに似た見世物芸だったのだろう。
禁制よけ
松浦静山自身飛鳥井家の門弟で、蹴鞠には詳しかった。前記の記事で、彼は「身柄ゆえ観にも行かれず…」と記している。天保12年は彼の没年、82歳だから無理もなかろう。実際に芸を見届けたのは「近従の輩」で、情報源はこの近臣の話と彼が買い求めて来たらしい「蹴方の番付」だった。件の鞠芸に対する静山の所見は次のとおり。
「この鞠夫が蹴方の番付と云ふを売施せるには『大坂表より、風流曲手鞠、大夫菊川国丸罷下云々』と。されども全く蹴鞠にして手鞠に非ず。是等は京師飛鳥井家の責を避るなり。又見よ。鞠に紋を描きたるも蹴鞠の鞠に非ざるを示すなり。或る人曰く。江都の鞠弟子(筆者注 飛鳥井家の)が観たるに、如何にも上足にして、実に曲鞠と謂ふべし。されども門下の鞠者とは云ひ難しと。然るべき言なり。又云ふ。実は江都京橋辺の鞠工の子にして、性鞠を好み、且つ曲鞠を為すこと専らなれば、其父の勘当を受て、京へ上りたるが、大坂と称して東下せしと。要するに翫覧して眼を喜ばしむるの用のみ。」
つまり、この鞠芸人は「大坂風流曲手鞠」(傍線筆者)の一派という触れ込みで演じていたが、静山の見るところ紛れも無く蹴鞠であって手鞠ではない。手鞠と称しているのは飛鳥井家の咎めを恐れたからであるという。また、ある人が言うには、非常に上手だが飛鳥井流の蹴鞠ではない。この者は本当は江戸京橋辺の鞠作りの息子なのだが鞠上手なうえに好んで曲鞠を演じたがるので、飛鳥井家の咎めを恐れた親に勘当された。そこで、いったん上方へ行ったが、今度大坂者と称して帰って来たのであると。
ここで言及されている「曲鞠」あるいは「飛鳥井家の咎め」とは、江戸時代、蹴鞠道家が代々の徳川将軍から保証されていた権利だった。即ち、飛鳥井・難波家以外に蹴鞠道で弟子を取ることや、道家の許しを得ずに勝手に曲足・曲鞠を演ずること等を禁じたものである。これに触れて飛鳥井家を破門されたり、幕命で遠島されたりした例が見られる。
終章
この鞠芸人も自らの修練で開発した曲足を公演して禁制に触れることを恐れ、「蹴鞠」とせずに「手鞠」と称し、蹴鞠の表皮に手鞠のような模様を施したのだろう。ここには、体制が庶民の自由な身体芸の表出を阻んでいる様子が描かれている。歴史やスポーツに「れば・たら」は無用ではあるが、日本のフットボール発達のためには惜しむべきことだった。
転機にある現代日本の球技界も悪しき伝統や旧観念、旧体制にとらわれない自由な発想と柔軟性のある制度作りによって再起してほしいものだと思っている。
(放送大学教授)
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