読書の周辺
学際的「福祉」研究
久塚 純一
私の研究とその周辺
私自身は社会保障や社会福祉に法的な側面から光を当てて研究してきた者である。法学の一分野である「社会保障法学」の研究から出発し、近年では、哲学、歴史学、心理学、精神医学、社会学等の分野にまで手を伸ばして、いわゆる「福祉」研究を学際的に実践している。
まずは、「福祉」の研究・実践と称してなされているものについてみられる、いくつかの特徴を指摘することとしよう。
指摘できることの多くは研究・実践を拘束することとなる前提的な事柄と強く結びついている。いくつかをあげてみるならば、それらは、(1)「福祉」の対象となるような事柄について考えたり研究することはよいことである、(2)制度の対象となる人々や事柄は前提的に存在している、(3)対象となる人々や事柄は専門家によって正しく把握できる、というようなものである。これらの前提的な(「約束事のようなもの」)が複雑に絡み合い、結果として、約束されたような研究方法や実践的技術を導くこととなる。たとえば、ひとたび専門家として認定された者には、「自己の私的な感覚や安易な問題発見」と「客観化された問題」を混同するというようなことを無自覚的に繰り返すことが許されることとなる。「福祉」が特殊なことでなくなり大衆化したことは喜ばしい(?)ことではあるが、そのことと安易な方法が容認されることとは別の事柄である。
「先生の発言であれば安易な方法でもよいのです」というような誘惑を払いのけるためには、何かに支えられて緊張感を持続することが不可欠のこととなる。そのような私を支えてくれるものは、まずは、研究会の仲間との議論や日常生活から得られるヒントということとなる。さらに、安易な方法に流されてしまいそうになる私を引き留める何冊かの本も重要である。この場合、重要な役割を果たすこととなるのは、高度で難解な本ではなく、メッセージの明確なものであり、かつ、平易に書かれたものである。
自らの方法を支えている論理性を知ること
福祉についての研究・実践で気にかかることは、「問題を抱えているとされる者(権利の主体?)が前提的に存在している」と考えていることである。したがって、障害者・高齢者等という表現の下で存在することとなる人々が、実は「制度としてのソレ」であるということについてはコメントされることすらないといってもよい。視力検査に使用される「ランドルト環」が作られるに至った歴史的経緯や、いわゆる知能検査というものが作られるに至った歴史的経緯をひもといてみれば、障害が普遍的なものではなく、制度化された結果のものであることが明らかになるであろう。
経緯について簡単に述べておこう。まず最初になされたことは、一定の集団の中において「正常な者」という風に感じられる者=その集団にとって都合が悪くない存在であると考えられる者=が選び出されることであった。ここで問題とされるべきことは、「正常な者というのはあのような人々のことだ」というように感じる役割を演じることを許されたのは誰だったのか? ということと、結果として「正常な者だと感じられることになったのはどのような人たちだったのか?」ということについてであろう。
次になされたことは、「正常な者」という風に感じられる人々にとってなすことが可能なこと(たとえば、「そのような人々が判読できるぎりぎりの大きさのものを確定すること」=視力検査表の創造=であったり、「そのような人々が教室の中に座っていることが可能な時間」を確定させたり、「問われて解答をすることができる問いを確定させること」)を基準としてスケールが作られることであった。
そして最後になされる作業が、そのようにして作成されたスケールによって、一定の集団の全員について検査を実施するというものである。このような手順によって発見されるに至ったのは、かつては集団の中に違和感なく存在していた人々であった。そのような人々は、ある時をきっかけとして「気づかれてしまう人々」として創造され、「気づかれるべき障害者」や「気づかれるべき高齢者」として制度的に作り出されることとなるのである。このように述べると、「昔から障害者はいた」だとか、「昔から高齢者はいた」というような反論が出てくるかもしれない。確かに、「昔から光を感じない人」や「生まれて以降、地球が太陽の周りを65周した人」は存在したが、そのことと、そのような人々のことを「障害者」としたり、「高齢者」としたりすることとは別の事柄なのである。
このようなことについて揺らぎそうになる私を支えてくれているのが『〈子供〉の誕生』(フィリップ・アリエス著、杉山光信・杉山恵美子訳、みすず書房、1980年)である。
質問をしよう
そうすると、重要になることは何かに対して「質問をする」ということになってくる。ここで求められている問いとは、「このような介助でよいのだろうか?」というような技術的なものではない。重要なことは、研究者・保健婦・ホームヘルパー等が「一定の人々に対して」、なぜ、「一定の人々という具合に感じてしまったり、介助を必要としている人々として感じてしまうことになっているのか?」というようなことを意識的に言語化することである。資格のために教えられてきたことであったり、仕事としての繰り返しによって身につけてしまったことについて、「自分たちは、なぜ、そのように振る舞うことになっているのか?」ということを理屈として考え、語ることができるようになることが大切なのである。そのようなことを繰り返すことによって得られるものは、「約束された思考」を乗り越えて、考えていることを考える=なぜ、私はそのように考えることとなっているのか? について考える=強靱な保健婦やホームヘルパーたちである。
結局のところ、『比較史の方法』(マルク・ブロック著、高橋清徳訳、創文社歴史学叢書、1978年)も述べているように「問いを発しないと資料・史料は答えてくれない」のである。
自らの専門性に対しての問いかけ
私は10年以上にわたって、「在宅介護研究会」(福岡県地方自治研究所)にかかわってきたが、そこでは自らの専門性を意識化した議論が繰り返されている。このような研究会で私を根本から支えてくれるのが『専門家時代の幻想』(イバン・イリイチ著、尾崎浩訳、栗原彬・樺山紘一・山本哲史監修、新評論、1984年)である。
思い出となっている議論に以下のようなものがあった。
(ヘルパー)「目が不自由な人でも、お茶をこぼさずに、ちゃんと七分目まで注いでくださるんですよ。」
(私)「それは、七分目まで注ぐべきだという考え方との関係でそのようになっているのではないですか?」
(ヘルパー)「だって、そうでしょ。見えないのにちゃんと注ぐのですよ。」
(私)「そうすると、あなたはお茶を七分目まで注ぐべきだという考え方があって、それをできそうもない人が実践していることについてすごい! と感じたわけでしょう? ところで、なみなみと注いではならないというようなことを決めたのはどのような人々なのでしょうか? お茶が七分目まで入っていることをまず判断できる人は目の見える人ではないでしょうか?」
升の中にコップがあって、そのコップにお酒を注ぐような酒場では、多分、お酒を注ぐ作法は「お酒がコップからあふれて、升からもあふれるようなもの」であるということになるだろう。ここで重要になるのは、「なすべき一定の行動様式」を作り出したのはどのような人々なのか? を知ることであり、障害者とされる人々が行ったことに対して、私たちが、「すごい」と感じてしまうのはなぜなのか? ということに気づき、問いを発することである。そこには、障害者とされる人々も含めて、双方が専門家化している像が浮かび上がってくるに違いない。重要なことは、ほぼ自動的に「私たちが考えてしまうことになる筋道」を支えている論理性について意識しておくことである。
どのように表現するか?
「同性介護・介助」と「男女共同参画」が複雑に絡んでいるような場面も豊富な材料を提供してくれることになる。あるところでは、「育児や介護は女性ばかりでなく、男性もするべきだ」といわれる。また、同時に、「障害者のトイレの介助は同性がなすべきだ」ということもいわれる。これをどのように理解したらよいのだろうか? これについては「簡単でしょ!」といわれるかもしれない。一方を支えている理屈は、「性別によって役割を固定するのはおかしい」というものである。そして、もう一方を支えている理屈は、「人間の尊厳」というようなものである。しかし、ここで問われるべきことがある。それは、使用される用語としての「女性」というものによって表現しようとしているものは、すべての「女性」のことなのか? ということである。きつい言い方をすれば、私たちが「女性」と標記するものは、すべて「女性」なのかということになる。誤解をしていただきたくないことだが、ここでは、「JOSEIという音声によって表現しようとしている対象」と「JOSEI」と発話した瞬間に「意味されることとなってしまうこと」との関係が問題となっているのである。「男性ばかりでなく」ということと「女性も」ということとは異なる意味を持っていることを知っておかなければならない。このことについては、大まかに言って回路は二つある。一つは、「『一方の性に属する人』ばかりでなくみんなで」と表現しようとする意図は、「女性だけではなく男性も」と表現することによっては表現できていないということを知っておかなければならない。
「産む産まないは女が決める」という、リプロダクティブヘルス/ライツについての発言は、多分、「男が決めてきた産む産まない」に対して、「男ではない性に属するものも存在していること」を忘れてはならないし、「決定に参加すべきだ」ということを表現しようとしたかったのに、「女」と表現することになってしまったことからやっかいなこととなってしまったといえよう。ポジティブに「女」と表現することによって、たとえば、「産まれてくる子供は?」だとか、「障害を持って生まれてくるであろう子供については?」というような問いが待っていることとなる。マージナルな者を表現しようとして使用した「女性」という用語が、「女性」と言い放ったその瞬間にポジティブなものに変身し、結果として、さらなる新しい「周辺像」を生み出すこととなっているのである。このようなことについて私を根本から支えてくれるのが『男でも女でもない性――インターセックス(半陰陽)を生きる』(橋本秀雄著、青弓社、1998年)である。
「自分でない人を理解すること」と
「自分でない人に伝えること」
自己決定権・アドボカシーについて考えることも多くのことを教えてくれる。
ここには、「他者理解」ということと「エクリチュール」の問題が横たわっている。一般に他者の理解は「福祉」の研究・実践で大切だとされている。しかし、重要性についての認識はきわめて限定的で浅薄である。それは、研究者や現場の者が、一部の者について、「よりよい状態を手に入れることについて十分に理解できない者」であるだとか、「よりよい状態についての表現が困難な者」であると考えてしまっていることと結びついている。実際、研究者や現場の人々の多くが対応することになるのは、(心身に障害があったにせよ)「多くの人々が一般に考えるやり方とかけ離れないくらいの考え方ができるような人々」に限定されることとなっている。もし、それ以外のかけ離れた人々に出くわしたとしたなら、そのような人々は、研究者や現場の人々の多くにとって、「専門家がよりよい状態を考えることとなる人々」という形で姿を現すこととなるのである。このようなことについて考えるには、大まかにいって二つの回路がある。
一つは「他者を他者として理解する」ということを巡っての問題からのアプローチである。これは、「自分でない者」のことを、「自分でない者が使用した表現方法に近い形で」、「他者ではない自分が理解する」ということの難しさを含んでいる。それにもかかわらず、「福祉」の研究者や現場の者の多くが、安易に「他者理解」の重要性について発言するのは、「専門家等」は「他者」以上に「その他者にとって大切なものがわかる」と考えられているからである。
もう一つは「表現方法」ということを巡っての問題からのアプローチである。これは、「表現しようにも文法構造上不可能な状態に置かれてしまっている」ということと結びついている。このようなことについて私を根本から支えてくれるのが『差異の文化のために』(リュス・イリガライ著、浜名優美訳、法政大学出版局、1993年)である。
(早稲田大学社会科学部)
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