大学教育と教科書
兵頭 俊夫
教育に必要な普遍的なもの
大学は今、そのさまざまな機能に関して、改革のうねりの中にある。最近の動きの特徴は、授業のあり方にまで関心が広まっていることであろう。しかし、教科書についての議論は、高校以下の教育に比べて、あまり深くなされていないようである。
筆者は大学教員の1人として、ここ10年近く学内および学外の学会活動などを通じて、教育のことを考えてきた。ただし、その中で、新しい教育をどのように導入すべきかという風に考えたことはほとんどない。むしろ、改革の内容にかかわらず保たれなければならないことは何か、本来実現されていなければならないことで未だに不十分なことは何か、を考えることを出発点においてきた。
筆者の専門は物理学である。それぞれの学問(ディシプリン)には各々特徴があるが、物理学は、自然現象を根元的な少数の基本法則で説明することを試みる学問である。筆者のものの考え方は、このような「物理学的」な考え方の影響をうけているのかもしれない。
講義は成功しているか
教育は、相手の人に物質以外のものを提供して満足を与えることを目的とする、という意味で、サービス産業である。サービス産業は人々に満足を与えてはじめて成功したと言えるが、日本の教育全体は果たして成功しているだろうか。個々の教員の講義は、サービス業の一店舗として成功しているだろうか。また、個々の教科書はどうだろうか。
日本の大学の学生は、受ける講義に対する評価が甘い。学生自らが講義を受ける態度についての自己評価も、甘いようである。これはおそらく、大部分の学生が親のすねをかじって授業料を払っていること、授業料が各学生の履修登録科目数と連動していないことと無関係ではないであろう。学外からの授業評価も、正確な評価が難しいこともあって、学生の評価を越えるものではない。そのため、レストランや理髪店のような世間一般のサービス産業であれば破産しそうな質の講義も、破産せずに続けられている場合があるようだ。
講義が成功しているかどうかは、一学期を終えた後に、学生が、その講義で語られた事柄をどれだけ詳しく理解したかで測られるべきであろう。履修した場合としなかった場合の差が大きいほど、よい講義ということになる。「もしその講義を100%理解すれば素晴らしいのだが」という類の手加減は無用である。目の前にいる学生が実際にどれだけ理解したかが問題になる。そのために、彼らが理解できるレベルから出発して、理解できる言葉で内容を展開していかなければならないだろう。
講義時間中は、教員も学生も教室に縛られている。その時間の間に受講生の中に新しい知識や理解が生じなければ、教員の時間と多数の学生の時間の膨大な無駄が生じることになる。教員はすべからくその無駄を惜しむべきである。
講義をあてにしない教科書を書く
教科書についても、それが「教育」に関わるものである限り、同じ基準で考えることができると思う。大学レベルの教科書には2種類ある。ひとつは専門課程から大学院にかけての学生および専門家向けのいわゆる専門書で、これは本来、独立して読まれるために書かれている。もう1つは基礎教育向けの教科書で、これは講義用のテキストとして使われることを想定して書かれている。本稿では主に後者を念頭に置いて、筆者が常々考えていることを述べるが、多くは前者についても当てはまると思っている。
講義で使われる教科書は、まず、対象とする学生の学年や専門に合わせて、前提とする予備知識の設定と内容の取捨選択をする必要がある。講義では教員の説明が加わるが、それを期待して教科書の記述を省略するのは望ましいこととは思われない。教科書が、学生に新しいことを学ばせることを目的とするものである限り、それだけを読めばわかるように書かれているべきであろう。学生がその教科書に払った代価が無駄にならないように、なるべく最後の方まで読み通させるように書く必要があろう。
講義は、限られた時間内のパフォーマンスだから、筆者の経験では、満足な出来で終わることは少ない。望ましいことではないが、大学教員は教育の手法について正規の訓練を受けていない場合が多い。私自身も受けたことがない。講義をする心構えについても必ずしもわかっているわけではない。だから、教科書を書くにあたっては、講義をあてにした手抜きをしないほうがよい。教科書は読むだけで十分理解できることを目指し、講義は聞くだけで十分理解できることを目指して、はじめて、何とか合格点の「教科書+講義」になるのではないかと思っている。教科書は戯曲の台本のようなものと言えるかもしれない。戯曲は役者が舞台で上演してはじめてその本来の役割を果たす。しかし、読んでおもしろいものでなければ良い台本とは言えないのではないか。
講義が待ったなしのパフォーマンスであるのに対して、教科書の執筆は十分時間をかけていいものに仕上げる余裕がある(もっとも、出版社へのご迷惑を省みなければ、ということではあるが……)。私の経験では、数回以上書き直してはじめて、何とか人様に見ていただけるようなものになる。自分自身への戒めは「小説家でさえ普通は何度も書き直して原稿を仕上げる。一介の物理屋が文章を書くのに、10回くらい見直すのは当然であろう」ということである。特に教科書は、学生が自分の自由意志による選択ではなく教員の指定によって買わなければならない場合が多い。そのことを考えれば、著者が努力して、読みやすいものを提供するのは当然である。
「役に立つ教科書」への配慮
私は、通勤の電車の中で原稿の見直しをする。そしてなるべく毎回、頭を白紙に戻して読み返すようにする。電車の中がいいのは、「精神をあまり集中しなくても読み続けられる内容になっているかどうか」を判定できるからである。著者自身が精神を集中しなければフォローできないような文章や論理を、初学者が1、2回読んで理解するのは、ほとんど不可能だろうと思う。
基礎教育の教科書の場合、「想定する読者」の予備知識についてだけでなく、将来の進路についての配慮も必要であろう。物理の教科書を例にとって考えてみる。
物理学は自然科学の基礎を支える学問であるから、全ての科学技術者にとって必要である。しかし、物理の教科書を含めた物理教育全体が、このことを大声で主張できる状態には、必ずしもなっていないようである。「必要だから」として押しつけられた物理が結局役に立たないという声はよく聞く。この問題の解決が物理関係者に求められている。
「役に立つ物理」を目指すべきであるが、しかしそれは、基本事項だけに集中したものでも、応用に振り回されたものであってもよくない。両立を目指すべきであると思う。しかも、あくまで基本に重心を置きながら、応用に手を伸ばしたものがよい。小学校理科から大学までの全ての物理教育において、この種の基本に重心をおいた両立が大切だと思っている。
従来、教育全般や教科書が専門的なことを重視しすぎるという批判があると、極端にそれから離れた方向が模索されがちである。初等中等教育の学習指導要領の最近の傾向はその典型的な例であろう。しかし、従来手薄であった部分への対応を強調するあまり、基礎基本をおろそかにしては、元も子もなくなる。
東京大学では、理科の学生の数学(解析学)と物理の講義にAコースとBコースを置いて教えている。それぞれBコースが、平成5年のカリキュラム改革で新設されたコースであるが、コース分けの考え方は異なっている。物理のBコースは、受験の際に物理を選択しなかった学生だけを対象としており、受講生の予備知識の違いに配慮しているといえる。これは、物理が高校では選択科目であることを反映しており、入試システムを補完するものである。これに対して、高校の数学は全員必修であるから、予備知識の差は考えなくてよい。そこで、数学のBコースは希望する学生が選択でき、解析学のε−δ論法に象徴される基礎づけにあまり深入りせずに、数学の基本概念とその使い方を教える。受講生の将来の志望に配慮しているといえる。しかし、あくまで数学を教えながら、受講者のニーズに応えようとしている。これは注目に値する。先に、教科書に関して「基本に重心をおいた両立」といったのは、まさにこの数学のBコースのスタンスを推し進めたものに近い。
筆者はこれまで、大学基礎物理教育の教科書として「熱学入門」(共著、東京大学出版会)、「電磁気学」(裳華房)、「考える力学」(学術図書出版社)の3冊を書いてきた。そのどれについても、読者の予備知識への配慮とともに、専門の物理学、応用のいずれにせよ、上や横につながることを常に意識しながら書いた。もっとも、その強い意識は本文中の細かい記述の仕方や順序に反映されているだけなので、読者に伝わっているかどうかはわからない。
大学教科書のあり方
最近、大学新入生の学力低下が憂慮されている。特に理科は、センター試験で物理と生物、化学と地学を同時に受験することが制度上できなくなったこと、多くの大学で受験科目を削減したことなどが影響して、高校で偏った学習しかしていない学生が増えている。一方で、高度の知識と論理的思考力をもった人材の養成に対する社会からの要求は増すばかりである。定員が増加の一途をたどっている大学院も、学部卒業生の学力が低下しないことを望んでいる。今や大学教育に期待されているのは、このような要求に応えるべく、優れた学部卒業生を育てることなのである。
大学教育の出発点は新入生に対する基礎教育である。ところが、大学設置基準の大綱化への対応で、基礎教育体制の弱体化がすすんでしまったようである。このような状況にあって、基礎教育レベルの教科書の果たす役割は大きい。教科書のCD-ROM化などIT化の方向も検討されているだろうが、やはり基本は、従来型の普通の教科書である。コンピュータ関係の解説書のブームが「普通の」雑誌や書籍の形で起きていることからも、それはわかる。IT化された教材は、特定の講義や演習に密着したものとしては大いに機能を発揮するだろうが、一般的な教材になるとは思われない。必要なのは、なんと言っても、基礎基本を中心におき、新入生の学力にあったレベルから出発して、可能な限りの高みに導く、わかりやすい教科書である。
(東京大学大学院総合文化研究科)
INDEX
|
HOME