ブルースの四季 秋

決算の時

湯川 新



 ミシシッピー川下流域の農村地区では、9月、10月になると降雨量が減って、綿花の収穫期を迎える。これを摘むのが黒人農民で、彼らの過半は小作人だった。小作人は、地主から、住居、農具、耕作用の家畜とその飼料、燃料の薪、綿花の種子、そして肥料代を提供され、春の植え付けから、秋の収穫までを行う。それと引き替えに、地主に対して作物の半分を提供するのが原則だった。収穫を終えた晩秋に、地主と小作人の1年の契約の精算がなされた。その時期の憂鬱な気分がカントリー・ブルースで歌われている。
 豚肉は1ポンド50セントだけど、綿花は10セントにしかならない/これじゃ女に逃げられる(サン・ハウス)。綿花畑で働かないと、秋には文無しと女房が言う/でも畑仕事を続けるとどうなるか/爺ちゃんはこれで死んだし、俺だってくたばっちまう(ビッグ・ビル・ブルンジー)。
 刈り分小作制度のもとでは、契約上は作物の半分は自己のものになるはずなのに、精算時においては、借財が残される。悪天候や虫害で不作の年や綿花相場が安価な場合は、それがさらに増えてしまう。抵抗するすべがあるとすれば、農業を放棄するしかない。くだんの詞は、そうした状況を端的に示唆している。つまり、晩秋は、黒人が借財の蓄積にもかかわらず農業を続けるか、これを止めるかの選択を迫られる季節でもあった。これは秋に限らず、南北戦争後、南部の黒人に常に問われていた選択でもある。奴隷解放はあっても、当時、南部黒人が抱いた夢、土地所有はかなわなかった。南部諸州で人種差別立法が施行された1890年代以降、黒人は南部農村にあっては多数派でありながら「人頭税」や「読み書き能力試験」などの制約によって実質的には選挙権も剥奪されていた。汽車に乗って北部へ移住することが黒人たちの抱く強迫観念にまでなっていた。
 南部から北部へ、農村から都市への黒人たちの民族移動とも言える動きが激化したのは20世紀に入ってからのことだ。第一次世界大戦中に白人の移民労働力が減少してこの傾向に拍車がかかった。食品加工、製鉄工場、自動車産業などの分野で黒人が働くようになった。大量生産のシステムが完成して、非熟練の、安価な黒人労働力の需要が生じたからだ。第二次世界大戦時には、西部の工業化もあってこちらへ移動する黒人たちも増加した。ブルースの録音は1920年、南部地域におけるその野外録音は20年代の半ばに始まった。これらの歌声の背後にトレイン・リズムと呼ばれる特有のリズム・パターンが聞き取れる。列車の轟音を模した響きで、前進を駆り立てるドライブ感がある。憂鬱な歌詞に、憂鬱を追い払うサウンドが重ね合わさせているのがブルース音楽なのである。
(ゆかわ・あらた/音楽社会学者)



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