科学する目 7
熱帯林の夜
青木淳一
もう、30年ほど前になるが、長い間憧れていた熱帯の森林に生物調査に出掛けることになった。行く先はボルネオのインドネシア領のカリマンタンの熱帯多雨林である。日本からジャカルタへ飛び、さらに小さい飛行機でボルネオ島のバリクパパンへ。そこからはリコ川を船で約2時間溯る。船を捨ててトラックの荷台にのり、ガタガタ道をさらに2時間、やっと辿り着いたのがソテックという小さな村。
あてがわれた宿舎はテラスつきで、なかなか洒落ている。しかし、冷房も扇風機もない。熱帯の暑苦しい夜、はたして安眠できるのか心配。しかし、その心配は無用であった。夕刻になると、昼間の暑さはどこへやら、急激に温度が下がり、ベッドの上にある長い枕を縦にして抱きつき、スヤスヤと眠った。日本のテレビでは「今夜も暑く、熱帯夜が続きます」なんて放送してるけれど、あれは熱帯に行ったことがない人が言っている言葉であって、熱帯の夜は間違いなく「涼しい」のである。「熱帯夜」は冷房装置から熱気が吹き出す大都会の夜にしかないと言ったほうがいい。
さて、初めて熱帯林に踏み込んでわかったことだが、まず林床が歩きやすい。鬱蒼としげる昼なお暗い森林の下には草が茂るだけであり、低木からなるブッシュもなく、ツル植物もない。クモの巣すら、見当たらない。後で聞いたことだが、ツル植物が縦横に絡まり、ヤブを潜るのに苦労する「ジャングル」は人間の手が入った二次林なのである。本当の原生林の中は、見通しもよく、まことに歩きやすい。それにしても、唸るほどの緑があるのに、動物の姿がさっぱり見当たらない。鳥やサルの声も、虫の声も聞こえず、シーンと静まり返っている。テレビでみる熱帯のさまざまな派手な動物たちの姿は、実は希にしか見ることができないのだろうか。
その失望の念は、夜に入ってたちまちに解消された。午後6時ちょうどに、われわれが「電話ゼミ」となづけたセミがジーコン、ジーコンと鳴きだす頃、それにつられるかのように、森の中からいろいろな動物たちの声が聞こえはじめる。「ンガガ、ンガガ」「ヒエーッ、ヒエーッ」「ケロッコン、ケロッコン」。何の声だかさっぱりわからない。現地人に聞いた結果、鳥と猿とセミの声だそうである。森の中に張ったテントの中で、私は森の動物たちの夜の大合唱にすっかり聴き惚れてしまい、眠るどころではなかった。正に、熱帯の森は「夜目覚める」のであった。そして、水平線がなんとも美しいブルーに染まりはじめて夜が明けると、かれらの合唱はピタリと止み、再び昼間の静かな森に戻るのであった。
つまり、熱帯の動物といえども、30度をはるかに越える暑さには堪え難く、活動時間を涼しい夜にずらしているらしい。ためしに、懐中電灯を手に、夜の熱帯林の中を恐る恐る歩いてみると、昼間はなにもみつからなかったのに、苔むした大木の幹に艶やかな堅い体をしてゴミムシダマシが這っていたり、太めのサインペンほどもある赤と黒の縞模様の巨大なヤスデがのっそりと歩いていたり、30センチ以上もある大型のヤモリがじっと張り付いていたりする。熱帯林の夜の散歩は、ちょっと怖いけれど、まことに楽しい。
自家発電で夜8時から11時まで点灯する電球には、さまざまな種類のガや甲虫類が飛来する。どれも、昼間はいくら探しても見付からなかった種類である。これも後でわかったことだが、熱帯林の昆虫類の活動する場所は、われわれの目が届かない、はるか上のほう、地上30メートルから40メートルの高木の林冠の部分にあって、そこには花が咲き、多くの昆虫たちが群れ騒いでいたのである。
普通に歩いていたのでは「動物のいない森」も、目の届かない高所と夜に注目すれば、やはり熱帯の森は動物たちの楽園であったのである。
(神奈川県立生命の星・地球博物館)
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