近世九州の出版文化
中野三敏
室町期まで、ごく特殊な領域でしか行なわれていなかった整版印刷による出版が、近世に入って朝鮮式と西洋式の活字印刷技術の両方がもたらされたことにより一気に活発化し、未曽有の出版文化の時代を迎えることになる経緯は、既に説き古されたことでもあるのでここには略す。
ただし、盛況を極めた所謂“古活字版”が、50年ほどを経て寛永期に入ると、再び整版印刷に戻って、以来幕末・明治期までの200年間、それが木版印刷の主流となるについては、従来その交代の理由として、今一つ説得力のある説明はなかったように思う。
私見は単純なことで、要するに寛永期を迎えて、営業としての出版業が完全に定着したためという事に尽きるように思う。すなわち出版が営業として成り立つためには、出来る限り簡単に増刷が可能でなければならぬのは、今も昔もそれほど変りはない。その点で、紙型を残すという技術が開発されない限り、活字版の増刷は、その度に初めから活字を組みあげねばならず、結局初版と同じだけの手間がかかってしまう。その点整版は、一度版を彫り上げてしまえば、その板木を残すことによってあとは刷り手間だけでいくらでも増刷が出来る。そのため、営業としての出版となれば、再度整版へ逆戻りするのは当然であった。活字印刷はこの時点ではまだ営業には不向きな方法だったのである。したがって、寛永期を迎えて、本当の意味での出版文化が定着することになったと考えられる。
そうなった上で、我国の出版界には今一つ大きな特色があったように思う。それは同時代の諸外国の出版状況と比較した時、出版物の内容の広範囲なことと、その量の多さという点に求め得るのではなかろうか。ただし、外国の事情を精査した上での発言ではないので、今は、憶説として記すにとどめるが、とまれ我国近世の出版は、その初発の時点からしてすでに所謂“物の本”から“草子”に至るまで、すなわち格調高い学術的、芸術的な書物から、極めて通俗的な教訓書や慰み本に至るまで、とにかく幅広く、多種かつ大量な出版が志されていた。それを可能にした最大の理由は、おそらく用紙としての和紙というものの、大量かつ廉価な生産がそれを支えたといえようが、ともかくこうした条件が、近世の出版文化を逸早く成立させたことは疑えない。
出版は、初めは京、やがては江戸・大坂と三都を中心に行なわれ、18世紀初頭、亨保の改革による法令の整備とともに一層の発展を見せて、名古屋を加えた四都に広がり、寛政を過ぎた19世紀に入るとほとんど全土に渉るようになり、九州でも盛んな出版活動が認められるようになる。
近世の日本は、いわば合衆国のようなもので、三百諸侯といわれた諸藩それぞれが一国を構え、法制・経済・文教・殖産・治水等、あらゆる局面にそれぞれ独立した施策を行なうとともに、参覲交代の制度によって常に中央との緊密な連携が図られ、各藩ともに上層部の文化水準は極めて均一なレベルが保たれていた。したがって出版文化に関しては上層に関する限り、初期の段階から三都の生産物が十分に行きわたって不足はなかったと思われるが、次第に下層の需要が高まるにつれ、各藩内においてその需要に応じる必要性が生じ、やがて出版そのものが根づくようになる。
そもそも出版という業種は、木版印刷の場合も、本格的に行なう時は極めて大きな資本と熟練した業務とが必要であり、それは三都の業者の独占的な営業とならざるを得なかった。したがって、ある地方の藩の中枢部において何等かの出版の必要が生じた場合、資金は藩が負担し、業務は三都の大板元に委託して行なうことで、十分にその需要に応えていた筈である。たとえば水戸藩や黒田藩などは、京都の小川柳枝軒という板元に委託して、藩内の有名儒者の著述を刊行させており、信越地方の諸藩では、地の利もあって尾張名古屋の永楽屋や風月といった大板元に委託することが多かったが、その類を藩版と称しているのは、一見、各藩による出版物として、地方で刊行された物の如くに認識されかねないが、こうしたものは実際には中央三都もしくは四都の出版として扱うべきは言うまでもない。
名実ともに地方版といい得る出版物は、その初めは各地方都市に散在した、看板や欄間、掲額、あるいは絵馬などの木彫職人、あるいは案内図や引札など一枚刷りの刷り物を手がける彫り師などが、次第に複数枚の刷り物をまとめて一冊物とするなどの段階を経て、板元として成長していったものかと思われる。したがってその製品そのものは、三都大板元の整美された出版物とは違って、彫りも刷りも極めて粗雑であり、何よりも用墨の製法や調合に未熟さが露呈されたものが多く、刷り上がりは各所に浚え残しの痕跡が点在し、刷りムラが出来るなど、御世辞にも精巧、整美とは言い難い版面を呈するものが多く、総括して“田舎版”という蔑称を以て呼ばれていた。しかし一端その内容を見ると、凶荒時の救済を志した救荒の手引き書や、安産の方法を教え、種蒔き、蚕育の実際を指導し、孝行者の顕賞を行うなど、地方の民生に密着した実用有益の懇篤な出版物がほとんどであり、有志者大勢の出資を募るなど、その出版の心意気は三都の大板元には見られない真実味を濃くするものである所に、その意義があるともいうべきであろう。
以下に、その九州における実際の出版物のあれこれを紹介してみる。
薩摩版に、日向版や大内版といった出版物は近世以前に遡って、いわば三都に先駆けての出版であり、以下に触れるものとは趣きを異にするのでここには略す。
九州の出版物として最も完成の域に達したものは天領の長崎における出版物であろう。ただしここでもキリシタン版は除外視して、この初発は専ら絵図や版画といった一枚物の刊行にあり、用途は土地柄から多分に土産物といった性質を持つ物であったらしい。古く正保二(1645)年刊とする「万国人物図」が「於肥州彼杵郡長崎津開板」の刊記をもつが、これが本当に長崎で刊行されたものかどうかははなはだ疑問視される。正確に長崎版と認定し得るのは、正徳・亨保(1711〜1735)頃の板とされる竹寿軒中村惣三郎版の長崎図あたりからで、その後、豊島屋・針屋・文錦堂・大和屋など十数軒に及ぶ板元が専ら長崎図の他に蘭人や唐人の彩色刷り風俗版画を製作販売して幕末を迎え、嘉永年間(1848〜1853)、三都に先駆けて通詞本木昌造による金属活字製作に端を発した出島版とよばれる西洋式金属活字印刷が始まると、早速に薩摩藩でも、当時字彫り板木師の名人と称された江戸の木村嘉平を起用して活字鋳造を試すなど、いわゆる近代活版印刷の黎明を迎える事になるが、このあたりの事はすでに専書も多く、詳細はそちらへ譲るべきかと思う。とまれ近代活版印刷の波は九州に起こって、やがて中央へと向かったことは特筆に価しよう。それとは別に天保年間(1830〜1843)には立身屋万兵衛という書肆が存在して、中島広足の著述などを中心にした出版活動を行なっており、伝統的な地図や版画とは異なる冊子型の書籍刊行に従事しているのは注目すべきである。
長崎についでは細川藩肥後熊本から菊池地方に早い動きが見られ、こちらは宝暦頃(1751〜1761)からの活動が確かめられるが、まだその実態は調査中で、確実な報告が出来るような階段ではない。後考に俟ちたいと思う。
ついで福岡藩では筑前博多の薬院という所で「推移軒」と称する彫り師が、儒医山崎普山の「農家訓」という教訓本を寛政十二(1800)年に刊行した例が、目下偶目する物としては最も早い。内容は藩内各所を巡回して農家の心得を講演して廻った中身を書きとめたもの。著者普山は藩医山崎杏雨の二男として亨保十四(1729)年に生まれ、俳諧に遊ぶ傍ら庶民教育に尽力し、恐らく本書もその刊行費用なども自から出資し、彫り師の推移軒にゆだねて刊行配布したものであろう。
天保三(1832)年、同じく博多の麹屋番と称する町の万玉堂次助という板元が、藩儒月形質の漢詩集「山園雑興」一冊を江戸の大板元山城屋佐兵ヱと合板で刊行している。この場合主板元は山城屋だったようで、本文及び菅茶山・頼杏平・頼山陽・菊池五山といった当代名家の序文を山城屋が江戸で製作したものに、更に藩儒竹田定夫、佐賀藩儒古賀紫溟、著者の長男月形弘、伊勢の韓聯玉といった主に地元名士の序跋を補刻して一冊としており、補刻部分は明らかに田舎版独特の版面を示していて、万玉堂による博多での補刻である事は明白。すなわち万玉堂という板元は、この時点で板元として自立してはいたもののなお力不足で、江戸の大板元山城屋をたのみ、補刻及び地元での売り捌きを受け持ったのであろう。本書には前述の補刻部分を持たぬ別本の存在も確認出来ており、それが山城屋単独板として江戸で売られたものかと思う。ともあれ万玉堂は博多における最初の板元として記憶されるべき本屋であることは疑いないが、残念ながらその実体は今の所ほとんどわからない。ただ、当時和学に名のしられた豊前小倉藩士西田直なお養かいの随筆中に「万玉堂額」と題して「ふみのはやしわけつくせども文字しらぬはかた最初の変屈のやつ」という狂詠を見る。これは博多の有名な禅寺「聖福寺」が、元久六年後鳥羽上皇より賜った宸翰「扶桑最初禅窟」の勅額を山門に掲げていた有名な事例を「博多最初変屈」ともじったもので、直養の眼からは本屋とはいえ文字知らぬ変屈者と映ったであろう万玉堂の片鱗をうかがわせるに足る好資料ではある。筑前ではその後、福間町に泰成堂、川端町に万屋、越後屋、東町に百花堂、また太宰府天満宮に笹屋などという板元が見出せるようになり、何れもまったくの田舎版ながら、順調な発展ぶりを示すものと言える。
同じ頃、筑後久留米に中沢嘉右衛門という彫り師兼業の板元が見逃せない存在である。筑前夜須の大庄屋佐藤藤右衛門の出資で、大儒貝原益軒の未刊の教訓本「君子訓」三冊を天保十三年(1842)年に刊行するが、その出来栄えは三都板と比べても全く遜色ない精巧な仕上りであり、更に嘉永二(1849)年、久留米の俳人保久志編の俳書「無尽集」一冊は、全丁に渉って彩色刷りが施されており、ここに田舎版の蔑称は払拭されたものとみてよい。彩色刷りの技術は墨や朱の一色刷りとは違って、色数の分だけ色板を作り、それを重ね刷りして色のズレがないように心がけねばならず、三都でもようやく宝暦前後(1750)に興った技法であった。この中沢氏は九州地方における出版文化の達成度を云々する時、是非とも究明されねばならぬ存在であることは間違いないが、今の所残念ながら、前記の立身屋や万玉堂同様、ほとんどその手がかりさえ見出せずにいる。
(福岡大学人文学部教授)
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