情報化の時代と書籍・文庫

五味 文彦



 ビジュアル・コミュニケーション

 今からほぼ七百年前の延慶二年(一三〇九)、奈良の春日神社に絵巻『春日権現験記絵』が奉納された。
 これは朝廷と鎌倉幕府との間の交渉の仲介役を務めていた西園寺公衡が寄進したもので、現在は宮内庁三の丸尚蔵館の所蔵となっており、時々その一部が一般に公開されている。朝廷の絵所にあった高階隆兼が描いた優品だけあって、正統的で、また丹念に描かれていることから、絵巻の研究者からは基準作品となるものとしても極めて高く評価されている。
 この絵巻にここで最初に触れたのは、これの描かれたのが極めて激動の時代であり、現代のわれわれの社会を考えるうえで、大きな示唆をあたえてくれるからである。この少し前の永仁年間(一〇九〇年代)から、日本列島の社会は大きな変化に見舞われ、絵巻はその流動した状況を色濃く反映し、またそれを描いている。
 すなわち奈良の春日神社は興福寺別当の支配下にあったが、永仁年間からその別当を出していた大乗院と一乗院の二つの院家の対立が高じ、やがてそれらにつらなる「悪党」が御神体の鏡を奪って山中に隠すという前代未聞の行動に出たのであった。
 春日大明神の神威を失墜させたこの事件を処理するなかで、鎌倉幕府はそれまで大和国には置いていなかった地頭を配し、さらには春日の山木が枯れる奇瑞も起きた。そこで春日の神威の回復を願って、この絵巻が制作されるに至ったのだが、そこには悪党の動きや合戦の様も克明に描かれている。
 この時代、悪党たちは様々な情報を得て、神出鬼没の動きを示し、各地をまたにかけて行動していた。播磨国の事情を記した『峰相記』という書物によれば、播磨では悪党の活動が正安の頃(一三〇〇年前後)から目立ち始めたといい、「所々の乱妨、浦々の海賊、寄取、強盗、山賊、追落」などの行為をし、その姿は「異類異形」の様であったという。こうした悪党の代表的存在こそかの楠正成であって、やがて後醍醐天皇に結びついて倒幕勢力を形成してゆくことはよく知られている。
 この悪党の活動に象徴されるように、鎌倉末期は情報が急速にかけめぐった時代である。二度の蒙古襲来以後、大陸からの情報に敏感になり、また朝幕間の交渉が頻繁となって、新たな情報が常に求められるようになった。幕府が京都の政治を左右したことで、朝廷や六波羅探題では幕府からの情報を逸早く得ようとし、また京都の情報も様々なルートを通じて関東に直ぐに伝えられた。
 交通路の整備も著しかった。唐船が大陸と列島を結んで唐物が流入し、僧が大陸と列島とを往来し、また東海道を旅する人々が増加して紀行文が作られたり、海道の様子を謡う早歌が流行した。幕府は東海道の宿々に二頭の早馬を常備させ、鎌倉・京都間を三〜四日、京都・博多間を六〜七日で伝達するようにしたが、これはまさに情報化の時代をよくものがたっている。
 ここに情報の入手を求め、また情報を効果的に伝達しようとする動きが活発化していったが、絵巻物はその情報の伝達手段としての有用性が認識され、広く制作されるところとなった。肥後国の武士の竹崎季長が、文永・弘安の合戦での活躍を描かせた『蒙古襲来絵詞』がなったのは「永仁元年二月」のことである。
 季長は一族との所領争いの結果、本領を失ってしまい、恩賞を求めて文永の役に出陣したものの、その恩賞がなかなか出ないことに業を煮やし、一族の反対を押し切って鎌倉に上って御恩奉行の安達泰盛に直訴し、ついに御恩を獲得することに成功した。弘安の役ではその恩に応え勇猛果敢に戦ったが、そうした事情を絵巻に描かせたのである。
 続いて浄土真宗を開いた親鸞の絵巻が制作されたのは永仁三年十月中旬のことで、「二巻の縁起を図画せしめしより以来、門流の輩、遠邦も近郭も崇て賞玩し、若齢も老者も書せて安置す」とあるように(『慕帰絵詞』)、門流の人々に見せる意図から制作されたものという。祖師の伝記を文字だけでなく、絵巻にも著わすことで、人々に信仰を実感させようとしたのである。
 律宗の忍性も、戒律のあり方を伝えるために大陸から日本に渡来した奈良時代の僧鑑真の行状を絵巻『東征伝絵巻』に描かせたが、それは永仁六年八月のことで、これは唐招提寺に寄進されている。鑑真の動きを描くことで律宗の信仰を訴えようとしたことがわかる。
 さらに時宗を開いた一遍の行状を描いた絵巻の制作も、一遍の没後まもなくに始まって、それが完成したのは永仁末年(一二九九)のことである。弟子聖戒が記し、絵は法眼円伊が描いており、「一念の信を催さむがために」描かれたとあるように、人々に広く信仰を勧めるために制作されたことがわかる。
 このように永仁年間には、ビジュアル・コミュニケーションとして絵巻が様々な領域で制作されていった。永仁三年には伊勢神宮の神官らによって歌合が行われたが、それもほどなく『伊勢新名所絵歌合』として絵巻に制作されている。歌合もまた絵巻に制作されたのである。やがて『絵師草紙』のような絵巻の訴状も描かれるようになる。
 こうして絵巻は広く人々にその目で見て欲しいという意図によって制作されたが、それは不特定多数の読者の誕生を意味している。これ以前の絵巻は注文主とその周辺のごく限られた人だけが読み手であった。院政期や鎌倉前期の絵巻は、上皇や将軍からの要請や絵合せのために描かれるなど、読者が限定されていたのである。そのために作者も、制作意図も、制作年次も明らかでないものが多いが、永仁年間からは制作事情が明らかなものが増え、まさに絵巻の時代といっても過言ではないような盛況を示すところとなった。
 そうしたところから、さらに読者の要望を入れた絵巻が描かれた。『一遍聖絵』は一遍の行状を単に描くだけでなく、一遍の足取りにそって、九州から奥州までにおよぶ諸国の名所の風景を描いており、これは当時の人々の列島各地への関心に応じたものである。大陸への関心に沿って描かれたのが、『蒙古襲来絵詞』や『東征伝絵巻』であり、また眼前で起きた事件をよく知りたいという読者の要求に沿って、『春日権現験記絵』や『蒙古襲来絵詞』が描かれたのである。

 ポレミークな書籍

 さらにこのような絵巻の制作の背景には、情報の発信者側の強い主張がうかがえるのだが、その傾向は絵巻だけでなく、この時代の書籍全般に認められる。
 その代表格が永仁三年(一二九五)に著わされた『野守鏡』である。そこでは一遍や京極為兼の和歌を厳しく批判するとともに、さらに法華経の読経の芸能では蓮入の流れを非難し、また禅宗の修行のあり方についても批判を加えている。この時期に広がっている様々な動向を批判した警世の書にほかならない。
 たとえば一遍については、「念仏義をあやまりて、踊躍歓喜といふはをどるべき心なりとて、頭をふり足をあげてをどるをもて、念仏の行儀としつ」と記し、「踊躍歓喜」ということばが経論にあることのみから、それを踊り念仏の根拠としてひろめたとして批判を展開している。総じて一遍や京極為兼が「あるがままに」という主張を行っていることの問題点をついている。
 絵巻の『天狗草子』もまた、延暦寺や三井寺・醍醐寺などの顕密寺院を始めとする寺院が天狗道に陥っていることを批判するなかで、それに付随して一遍の活動も天狗のなせるものであったとしている。一遍の踊り念仏の際の花が降る奇瑞を揶揄し、天狗が花を降らせている風に描き、また一遍が貴人に念仏札を配って念仏を勧め、一遍の尿が病に効くということで人々がそれを争って求めている風景の絵を載せて非難を展開している。さらに禅徒の芸能のあり方についても批判的に描いている。
 もちろんこうした批判があれば、それへの反批判も盛んになされた。批判された歌人の京極為兼は、対抗する二条為定と勅撰和歌集の撰者となることを争って、激烈な論争を展開している(『延慶両卿訴陳状』)。また読経の流れについても、『野守鏡』の拠っていた蓮界の流れを批判したのが宰円の『弾偽褒真抄』である。その書名からしても著しく論争的な作品とわかる。『一遍聖絵』も実はその反批判の一つとして描かれたものであったといえよう。
 こうしたポレミークな書籍が生まれた背景を探ってゆくと、そこには「家」の問題が見えてくる。学問や芸能が家の形で継承されるようになったのは鎌倉時代前半のことであったが、それが鎌倉時代の後半になると、その家に分立が生じ、嫡庶の争いが激化し、対立が生じていたのである。たとえば京極為兼の和歌について見れば、藤原定家の御子左家の流れの中で庶流の立場にあったことから、嫡流の二条家と対抗してその歌論を形成するに至ったという事情があった。
 家の分立は様々な場で生じており、たとえば鎌倉後期から始まる皇統の分立もそれにからんでいた。後嵯峨上皇の死後、皇統は亀山天皇の大覚寺統と後深草上皇の持明院統に分裂し、それぞれが皇統の正統性を主張し、わが皇統から天皇を出そうとして鎌倉幕府に対して働きかけたのである。そのため、たとえば歌人の為兼は持明院統と結び、為定は大覚寺統と結んだのであった。
 そうした分立状況をよく物語るのが次にあげる二つの絵巻である。一つは比叡山延暦寺の鎮守である日吉山王社の霊験譚を描いた絵巻『山王霊験記絵』であり、その制作の動機は、最後の話に持明院統の光厳天皇の出生が語られているところから、光厳が治天の君になることを祈ってのものと考えられる。
 もう一つは同じ日吉社を素材とした絵巻『元徳元年日吉社行幸記』という作品で、これは元徳元年(一三二九)に大覚寺統の後醍醐天皇が日吉社に行幸したのにともない、比叡山の悪党の活動と、後醍醐の行幸の様子とを描いている。皇統の分立も絵巻制作に深く影響していたのであった。
 では鎌倉幕府の場合はどうか。幕府でもその基礎をなす御家人の家で嫡庶の争いが激化していた。分割相続による所領の分散を防ぐため、庶子には一期分と称して、一生の間は所持できるが、死後には家督に返還しなければならないという相続制度が取り入れられるなど、所領を継承しない御家人が増加していた。
 こうした御家人の保護政策を始めとする政権の舵取りをめぐって、幕府では政争が起きていた。御家人保護の政策を推進した安達泰盛が滅ぼされた後、永仁元年(一二九三)四月十三日の大地震で、鎌倉の山が崩れ、寺院・人家が崩壊し、死者は二万三千二十四人に及んだが、その余震が続く鎌倉で、四月二十二日に執権北条貞時が、泰盛を滅ぼした平頼綱の一族を討って、泰盛の勢力を復活させ、判決の過誤の救済を図り、直接に訴訟の指揮を行うなどの徳政を実施している。
 そうしたことから、御家人の訴訟は幕府に次々と寄せられてきたが、ついに永仁五年(一二九七)三月、夜空に出現した大彗星を契機にして、質券売買地を本主(売主)に無償で返却することとした永仁の徳政令が出された。これは昨今の債務破棄の「平成の徳政令」を思い起こさせるような法令であり、幕府を支えている御家人を救済するための対策であった。『蒙古襲来絵詞』を描かせた竹崎季長もかつてはこうした御家人だったのである。
 しかし徳政令は御家人のみならず借財を抱える多くの人々を巻き込んでいった。徳政令が出されたという噂が立つや、多くの庶民が「徳政と号して」土地の取り戻しへと動き、そのかたわらで債権確保のために人々は自衛に走った。自らの権利は自らの力で護る自力救済へと人々を動かし、それとともに様々な情報が次々と駆け巡って、それらに俊敏に反応して動くことが求められることになった。
 そうしたなかで著わされたのが鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』である。幕府を形成しその後の執権政治を担ってきた御家人の家々でも、この時期に動揺が始まっていたことから、彼らの家の形成の歴史を探ることで、家の立て直しを行おうという意図に基づいて編纂されたのである。
 そこでは幕府の形成を担った頼朝とその時代、執権政治へと転換を果たした北条泰時とその時代の二つが、模範的な時代として描かれている。
 前者では、平氏を討てという以仁王の令旨が伊豆の北条の館にもたらされ、源頼朝・北条時政の手によって開かれる場面に幕府の始まりを見ている。令旨に象徴される朝廷の権威、頼朝という武士の長者、さらに時政に代表される東国の武士団、これら三つの結びつきによって幕府が始まった、としており、その武士の英雄時代を描いたのである。
 後者は、執権北条泰時が有力御家人を評定衆に任じて、その合議によって政治を運営する体制を成立させた時代であり、貞永元年(一二三二)には『御成敗式目』が制定され、評定衆十三人が理非の裁断には公平にあたることを神に誓う起請文を提出している。まさに幕府を形成する御家人の家が確立した時代であった。
 そして『吾妻鏡』の編纂された永仁年間といえば、その確立した家の動揺が始まった時代であり、そこで歴史を振り返るとともに、新たな動きに対処しようということになったわけである。

 文庫の形成

 こうして永仁年間には絵巻をはじめとして様々な書籍が著わされたが、そうした書籍を著わすためにはこれ以前になった書籍の蒐集や書写が広く行われていたことを見逃してはならない。
 『吾妻鏡』の編纂の材料を探ってゆくと、永仁の徳政令の適用を受けるために、御家人たちが自分の家が御家人であることを証明するために幕府の法廷に提出した文書が多く見え、また神社や仏寺がその所領の由緒を示すために幕府に提出した文書もいくつか見える。なかには相当に怪しい文書もあるが、それらは『吾妻鏡』が永仁年間の近くに成立したことをよく物語っていよう。
 藤原定家の日記『明月記』も利用されていた。これは御子左家のもう一つの庶子の家である、為家が阿仏尼との間に儲けた為相に発する冷泉家が鎌倉に下り、幕府の保護を受けるなかで提出したことにともなうものであった。
 編纂の主要な材料は幕府の実務を担う奉行人の日記であるが、承久の乱後に成立した『六代勝事記』などの歴史書も利用された。また王朝の説話や中国の史書『史記』なども表現の上で利用されている。なかで興味深いのが、建長四年(一二五二)に著わされた説話集の『十訓抄』が利用されている点で、そのなかに見える逸話が巧みに『吾妻鏡』の逸話に転用されている。
 この『十訓抄』は十巻の編に分類して「昔今の物語を種」にした教訓話を配列したものであり、全部で二百八十二話におよぶ。「才芸を庶幾すべき事」や「人に恵を施すべき事」、「忠直を存ずべき事」のなどの話が多く見え、当時、何が徳目として求められていたかをよくうかがわせて面白いのだが、作者はこれまで明らかではなかった。
 そこで最近、私は儒者の菅原為長の孫宗長(観証)であろうと内部徴証から推定していたところが、その観証が実は鎌倉に下って、北条氏の一門である金沢実時の後見となっていたことがわかった。
 律宗の叡尊が関東に下った時の記録『関東往還記』の弘長二年(一二六二)条に、鎌倉にやってきた叡尊のために宿所などの手配をするべく金沢実時が派遣してきた三人の僧のうちの筆頭に「観証(為長卿孫、越州後見)」と見えており、さらに実時が文永十一年(一二七四)に書写した『斉民要術』の紙背にも「観証御房」宛の二つの文書が見え、間違いなく『十訓抄』の作者は鎌倉に下って実時に仕えていたと確認できたのである。
 『吾妻鏡』の編纂の場が金沢文庫を形成した金沢氏の周辺にあったろうことは、これまでに推測されてきたが、こうして見てくると、その可能性はすこぶる高い。金沢氏は北条氏の一門のなかでも泰時の時代から、家督の得宗を助ける存在として位置づけられており、その立場に沿って、実時は得宗の時宗を補佐しつつ、京都から下ってきた文化人に学び、古今東西の書籍を蒐集して金沢文庫の基礎を築いていたのである。
 そして金沢文庫を背景にして『吾妻鏡』の編纂を担ったのは、おそらく実時の子顕時であったろう。顕時は幕府の要職を歴任していたが、安達泰盛の娘を妻としていたことから泰盛が滅ぼされた事件に連座し籠居したが、やがて永仁元年に政界に復帰している。
 ところで『吾妻鏡』が未完の作品であったことは、幾つか欠けている巻があることや、記事の著しく少ない巻があることからうかがえるが、それが未完に終わったのは、顕時が正安三年(一三〇一)に亡くなっており、それにともなうものであろう。編纂を継承すべき子貞顕はその翌年に六波羅探題となって京に赴任しており、編纂は中断してしまったと見られる。
 しかし編纂は頓挫したものの、貞顕は京都に赴任すると機会を捉えては書籍の書写を精力的に行っている。建春門院中納言の日記『たまきはる』や『建礼門院右京大夫集』などの歌日記を始め、法書の『法曹類林』、漢籍の『古文孝経』『春秋経伝集解』『六臣注文選』『群書治要』、歴史書の『水鏡』『百練抄』、類書の『管蠡抄』などが奥書から知られているが、それらは今に金沢文庫本として伝えられている。
 貞顕は『春日権現験記絵』が春日社に奉納された年に鎌倉に戻ったが、その京にあった時に親交を結んでいた人物の一人に、『徒然草』を著わした兼好法師がおり、兼好は金沢氏を頼って鎌倉に下ってきている。その三十四段を見よう。
 甲香は、ほら貝の様なるが、小さくて、口のほどの細長にさし出でたる貝の蓋なり。武蔵国金沢といふ浦にありしを、所の者は、へなだりと申し侍る、とぞいひし。

 練香の材料となる「甲香」の形状を説明して、それが武蔵国金沢の浦では、「へなだり」といわれている、と語ったものである。兼好の家集の七六番にも「武蔵の国金沢といふところに、むかし住みし家のいたう荒れたるにとまりて」と見えている。
 その兼好は『徒然草』百二十段のなかで次のように唐物流入の様子を語っている。
  唐の物は、薬の外は、みななくとも事欠くまじ。書どもは、この国に多く広まりぬれば、書きも写してん。唐土舟の、たやすからぬ道に、無用の物どものみ取り積みて、所狭く渡しもて来る。いと愚かなり。

 このように唐物珍重を厳しく批判しているほどに、当時の鎌倉には大陸から唐物が大量に流入しており、その一部は金沢文庫に納められたのである。
 そうであればこの時期に文庫を形成したのは、金沢氏のみに限られない。北条氏の一門では常盤文庫の存在が知られており、京都では二つの皇統に付属して文庫が設けられていた。おそらく貴族の家でもそれぞれに文庫の形成がなされていたのであろう。
 たとえば永仁二年八月に書写された『本朝書籍目録』と称される書物を見ると、これは「入道大納言実冬卿」から借りて写したものと奥書に見えるが、本朝の書籍を二十の編目に分類し、総計四百九十三の書目をあげて書名と巻数とを記している。そこでその内容を調べてゆくと、日本の書籍の全体を調査して載せたというよりは、三条実冬の家の蔵書を中心にした目録と見るべきものとわかる。
 なかでもその目録には検非違使関係の書籍が多く見えるが、実冬の家は代々にわたって検非違使の別当に任じられており、管絃に関わる書籍や、和歌と漢詩に関わる書物が多いのも、実冬がそれらに秀でていたからであろう。目録には実冬の家に備わるような書物が列挙されているのである。なおそうした蔵書の目録が作成され、それが書写されているところに、当時の人々の書物への強い関心がうかがえる。
 しかしこうした多くの文庫は続く南北朝時代の戦乱や火事などで消えていったが、金沢文庫の場合、金沢氏が得宗に殉じて鎌倉幕府とともに滅んだにもかかわらず、今に伝えられてきているのは、金沢氏の菩提寺である称名寺に保管され、また鎌倉から離れていたために戦乱や火事の影響を受けなかったからである。

 おわりに

 以上に見てきたように、金沢文庫は情報化という時代の申し子として生まれ、当時の社会の、知の体系を示す存在であった。それはまた歴史書の編纂の舞台となり、本の貸出しを行って今日の図書館のような機能をも有していた。
 その存在は、現代の大学と図書館と大学出版部の三つのあり方を考える上で、大きな示唆をあたえてくれる。
 金沢文庫の充実と書籍の保管のためには、多大な意欲と熱意が傾けられてきたが、それと同様な意欲と熱意とがそれぞれに求められよう。組織は人が動かし運営するものであれば、そのことが一番大事となる。時代の激動とともに組織や機関は転換を迫られるが、それだけに熱意が失われたならば、滅びざるをえない。
 また金沢文庫がその後も重視され保存されてきたのは、単に数量を蒐集するだけでなく、良質な書籍を蒐集したことにあったが、そのためには良質であるかどうかをしっかりと見分ける眼力が必要であった。その時々において重要性が認識されていても、時代の変化とともに顧みられなくなるようなものもある。逆に一見して重要でないと思われるようなものでも、後になってみれば重要であったことが認識される例も多くある。先見性と継承性を加味した広い視野を涵養することが大事となろう。
 法人化という新たな経営の時代に入った国立大学において、大学出版部には多くが求められることになろう。それを受けつつも、長期的な展望に立って、独自に時代を見据えて行くことが望まれる。

(東京大学大学院人文社会系研究科教授)



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