市井のダンテ学者 大賀寿吉
岩倉 具忠
大賀寿吉(1870−1936)は岡山の出身で、この都市を貫流する旭川にちなんで「旭江」と号した。大賀氏は大阪の武田製薬株式会社に勤務するかたわらダンテ研究に心血を注ぎ、終生ダンテ文献の蒐集に文字通り挺身した。氏の蒐書は興味本位の好事家のそれとはほど遠く、ダンテ学者としての深い見識に基づく選書基準によって厳密に学問的価値のある質の高いもののみを対象としていることは万人の認めるところである。それだけに情報量の乏しかった当時にあって蒐書がいかに苦労の伴う作業であったか、また待望の書物を入手した時の喜びがどんなものであったかがその書簡の行間からうかがえるのである。氏はまた研究者に対してダンテ文献に関する貴重な情報を提供し、学問的助言を呈し、書物を寛大に貸し与えて惜しみない援助の手をさしのべた。のみならず自身もダンテ学の普及のために進んで啓蒙的な役割を果たした。
幸いなことに、大賀氏は大正期に『神曲』と『新生』の名訳を世に送った山川丙三郎にあてた200通にあまる書簡を遺している。そこには、この市井の学者のダンテへの情熱と山川氏との深い交流の姿が克明につづられているばかりではなく、大正期の日本におけるダンテ研究の実情や、ひいては文化状況までもが如実に映し出されており、教養人としての大賀氏の文明批評の一端が読み取られて興味がつきない。「小生の文庫も追々に蔵書の数を増し目録を作らねばと存居申候へども時間も思ふに任せず止むなく打捨居申候 実はかねて御承知の通り小生英語以外は一向に了解不仕従て蔵書も自分には読めざるもの多数ながらそれを眺めて喜び居り候は自分ながら偏なものとあきれ居候事にてただただこれらの書物を読みて役立てらるる人を相待申居候事に御座候」。これは大賀氏がダンテの『神曲』を翻訳中の山川丙三郎に送った大正12年(1923)7月6日付けの書簡の一節である。大賀氏はやや自嘲気味にいかにも自身を単なる好事家であるかのように語っているが、氏はダンテとイタリア中世文化にきわめて造詣の深い一家をなした学者であり、しかもつねに上述のように愛蔵する書物を惜しみなく研究者に開放し、後進のために役立てることを願っていた。ここには大賀氏が「旭江文庫」を形成した蒐書方針がさりげなく語られているのである。上述の書簡からは大賀氏の人となりが存分にうかがえるばかりでなく、ダンテ研究家としての蒐書への情熱が読むものにひしひしと伝わってくる。またそれは大正から昭和の初めにかけての日本におけるイタリア研究の実情ならびに西洋文化全般の受容についての詳細な状況を如実に映し出すまたとない史料でもある。
ある国の文化事情を計るにはその国の出版状況を調べれば足りるといわれるが、大正元年(1912)の日本の出版物の数は、図書2万4000種、定期刊行物2300種を数えるまでになっていた。その内容はどうかといえば「アカギ叢書」などの廉価本でイプセンの『人形の家』、モーパッサンの『女の一生』、トルストイの『復活』、ワイルドの『サロメ』など西欧文学の傑作が紹介されている。このように西洋文学の初歩的な知識が大衆化したのもこの時代の特長である。しかも大正期のベスト・セラーズのなかには西洋文学の翻訳が多数見いだされる。島村抱月訳のイプセン『人形の家』、戸川秋骨訳のユーゴー『哀史(Les Miserabls)』、さらに生田長江訳のダヌンツィオ『死の勝利』までが数えられることには驚かされる(庄治浅水『日本の書物』創元社、1954)。ただし原作がイタリア語の場合は、ほとんどが他の外国語訳からの重訳である。ダンテの作品もこうした文化的雰囲気のなかで紹介されたのである。
この頃になると明治以降のかけ足の近代化の成果が着実に現われ、社会生活は物質面ではたしかに向上したとはいえ、急激な発展の生み出したさまざまな社会的矛盾が次第に顕在化してくる。青年層はこうした趨勢を敏感に捉え、物質的繁栄の背後に精神的な支柱の欠如を痛感し、精神的な飢餓状態に悩むものが少なからずあった。このような傾向に応えたのがキリスト教である。島崎藤村(1872−1943)初め多くの青年文学者が入信し、キリスト教の影響のもとに創作活動を展開した。ダンテの文学は取り分けそうしたキリスト教文学者から好んで受け入れられたのである。したがって彼らは上田敏(1874−1916)のようにほとんど例外的にダンテの詩を審美的観点から味わおうとする一派に対し、ダンテの倫理的側面に強い関心を抱き、その強靱な精神と人間的なスケールに着目したのである。後者の代表は熱烈なプロテスタント内村鑑三(1861−1930)である。大賀氏のダンテ研究もこうした明治から大正にかけての精神風土とけっして無縁ではない。大賀氏の深い学識は時として彼を大正時代という西洋文化受容の過渡期に対する呵責のない批評家にした。
大賀氏の書簡を通して、大正から昭和にかけて日本ではダンテへの関心が高まり、多くの翻訳や著作が世に出た様子が手に取るようにわかるが、氏はそうした傾向を喜ぶ一方で、その多くが浅薄な半可通であることを慨嘆している。新潮社版『世界文学全集』に収められた生田長江訳の『神曲』には、よほど堪えかねた様子で、次のようなくだりがある。「生田訳神曲一読仕候。『何でも屋』を誇る人がかかる傑作を訳するは冒涜とも感ぜられ不真面目なる序文アキレ申候 貴訳利用と思はる所不少候」(1929年9月19日)。「我国にも此頃は折々ダンテに関するものの刊行せらるる様に相成り感謝にたえざる事ながら、さてその内容を見れば腹立たしくもあり、なさけなくもありという次第なるは残念に申候 『万有文庫』の神曲、新生及び詩集の訳、これは己刊の日本訳をくづしたるものなるべく、ダンテを全く台なしにいたし申候」(1927年11月13日)。これに対する山川丙三郎の返事(下書き)には「惣じて近頃書肆にあらはるる訳本や批評類にはいかがわしきもの多く……去年出版されしダンテ小説小曲集なるものは久保正夫氏のダンテ詩集を口語に直したること明瞭にてそれも序文に何等久保氏のことを記し置候ざるは不徳の仕打と存候。他人の訳ばかりを台にして自訳製造する発明人は日本にのみあるにあらずやと存じその勇気におどろくの外無之候」(1927年11月24日)とある。ちなみに大賀氏は当時ダヌンツィオとの華やかな交際で大衆的人気を博していた下位春吉について、「下位氏は何か名を売るに急なるやに相見へ小生などとやり方大に異るやに思はれ申候」(1921年2月20日)と批判している。
大賀氏の東京のダンテ愛好家たちに対する態度というか、対抗意識というか、なかなか興味深いものがある。「東京のダンテ協会はホンの所謂芸術とか何とかにあこがれる風の青年の発起なるやに伝聞仕居候 其発起人の一人竹友虎雄(藻風)は小生両親の懇意にて近頃米国より帰朝のよしに御座候……此人は官吏にて一寸名を知られし故税所氏の息かと存候が今は画など描いてくらし居る人なるやに推察致し候」(1920年2月14日)。また「東京のダンテ協会の『あるの』も大延引六月一日には発刊との事なりしに未だ其運びに至り不申候様子、かかる事はセンチメンタルなる青年の一時の思付にては中々にやれ不申候」(1920年6月21日)。
第一次世界大戦終局から間もない書簡には次のような感想が見られる。「欧州に於ける社会の混乱は予想外なるが如く何時果して平和の日の来るや心細く感じ申候事に御座候 デモクラシイの思想の可なるはいふまでも無之候へどもあん愚なるマスの圧制も中々堪え難きものに有之候 軍国主義を破りたりとて誇れる連合軍に却って軍国主義一流の論議が行はれる事など見候時は矢張歴史は繰返へし候ものにて随分おかしき事ながらかかる内に人は進みゆくものとあきらむるの外無之やに存候 かかる状態を見るにつけダンテが政治論に於て一見識を有し致候て而も卓越せる見識を有し居りしはただただ驚嘆の外無之候」(1919年4月1日)。
大賀氏の書簡からうかがい知ることのできる当時の日本におけるダンテ受容の状況は、詩人としてのダンテ像よりもむしろ英雄としてのダンテ像の方が断然優勢であることを示している。つまり原語の詩の美しさを味わうことのできなかった読者は、ダンテの作品の内容をくみ取り、『神曲』の壮大さや『新生』の神秘的世界に感じ入るとともに、作者の偉大な人物像に魅力を感じたもののようである。西洋文明を受け入れた日本人は、「和魂洋才」の「和魂」がおよそ頼りない代物であることに気づき始め、西洋の精神性に強い憧憬を抱くようになった。その精神性の具体的顕現としてキリスト教徒やダンテの強烈な自我に惹かれたのである。またそうしたダンテ受容の方向性にはカーライルなど英国の作家からの影響が少なからずあったこともなおざりにはできない。
最後に大賀氏の名を不朽にした「旭江文庫」について一言触れなければならない。日本におけるダンテ研究の歴史は、日本で最初のイタリア語学・イタリア文学講座が京都大学に設立を見た経緯と切り離しては考えられない。講座の正規開設は大賀氏の没後数年経った1940年のこととなるが、同講座の誕生は京都大学を中心とする多くの先覚者たちのたゆまざる努力に負うところが大きい。1908年文学部の創設にともない初代西欧文学の教授として招かれた上田敏は「ダンテの神曲」を講じ、もしくは多くの講演によってイタリア文学を紹介した。ついで厨川辰夫(白村、1880−1923)は、西洋文学の総合的研究の観点からダンテ研究を推奨している。1921年はダンテ没後600年記念の年にあたり坂口昴(1872−1928)、新村出(1876−1967)、浜田耕作(1881−1938)、厨川辰夫(1880−1923)の諸教授および民間のダンテ学者大賀寿吉、黒田正利(1890−1973)講師などにより『芸文』の「ダンテ記念号」が編集され、同時にこれらの人々が中心となってイタリア文化の研究と紹介を目的とする「イタリア会」が組織された。
特筆すべきことは、上述の大賀氏の永年にわたる苦心の蒐書である「旭江文庫」が京都大学に遺贈されたことである。日本では他に類を見ない約2000点にのぼるダンテ研究文献の一大蔵書が講座の開設と軌を一にして京都大学附属図書館に収蔵されたことはダンテ研究の歴史にとってきわめて重要な意義を持つ。同文庫は1502年から1936年までに刊行されたダンテの著作の原典・原典の各国語訳・研究書・学術誌を含み、ダンテ・コレクションとしては量的にも質的にも今日に至るまで日本随一の蒐書である。
注記
本稿で引用した大賀氏の書簡は「イタリア学会誌」3、7、8、9に分載された「大賀寿吉氏の書簡」(木村文雄編)による。
(京都大学名誉教授・京都外国語大学教授)
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