協会創立40周年「記念講演」(2003年12月5日)
大学の変化と出版部の役割

佐々木 毅



 日本大学出版部協会の創立40周年を記念して何か話をしてくれというご依頼を受け、本日その責を果たすべく登壇いたしました。
 さて聞くところによると、大学出版部協会はいまや27大学出版部を会員とする組織ということです。われわれ大学に奉職する者にとって大学出版部はきわめて重要かつ、なくてはならない存在になりました。その意味でまず、このような大学出版部の発展に尽力された皆様方に対し心からの敬意を表し感謝申し上げたいと思います。

 大学と出版部とのかかわり方

 私、改めて「40周年記念の会」の案内状を拝見して、大学出版部と一口で言っても、実にさまざまなタイプがあるということに大変興味をもちました。この場には、理事長さん、会長さん、そして代表取締役社長の方もおられます。このことは大学出版部が多様な形態で組織されているということを如実に物語っており、このような多様性による経営コンセプトの相違性ということもまた容易に想像されます。がしかし、そのような相違を超えて、大学出版部が日本の学術の発信と、大学の学問的成果を広く社会に広めかつ還元していくうえで、大きな役割を果たしてきたことは改めて申すまでもなく、また協会創立後40年にわたる足跡には、非常に見るべきものがあったと思っています。
 ところで事務局のお話では、近年全国的に新たな大学出版部設立の機運があるとのことです。その趣旨は色々だと思いますが、大学をとり巻く環境が様々に変化して、その中で大学は社会への発信能力を高めるために、多様な手段なり媒体なりを必要とする時代に入った、ということでしょう。このことはなにも出版だけではなく、他の媒体もあるわけですが、大学にとって「活字と出版」が昔もいまも変わらぬ中心的な媒体であることは言うまでもありません。
 大学がその知的成果をどのようにして外部に発信していくか、ということは別に今日始まったわけではなく、そうした大学の活動はこれまでもずっと行われ、かつそれらは社会に伝達され蓄積されてきました。その際日本においては、大学出版部だけでなく一般の出版社がそれを媒介し、そしてむしろその方がある時期までは主流であったわけです。大学出版部というもの、たとえばオックスフォード・ユニバーシティ・プレスとか、ケンブリッジ・ユニバーシティ・プレスとか、あるいはアメリカの大学出版部、それぞれのイメージにはかなりの差があるように私には見えますが、考えてみますと、これらの大学出版部というものが長い歴史と豊かな成果とを合わせ持ち、しかもわれわれが外から見る限り、大きな危機や混乱に巻き込まれることなくその活動を続けてきている。このことは一国の文化の水準とその成熟度を示すものである、と私は認識しています。
 大学出版部とは大学の知的成果の発信媒体である、という考え方は、ある意味では至極もっともです。何らかの手段で知的成果を効果的に社会に伝えるということは、大学が、今後ますます社会のなかで広い理解とそれに基づくサポートを得なければならない時代に突入した以上、必要不可欠であることは言うまでもありません。しかし、同時にすぐわかることですが、大学出版部が特定大学の関係者だけを相手にしているということになると、その社会的な影響力は逆に作用するのではないか。もちろんそこには、出版に携わる方々のプロとしての見識というものが当然、共通のコードとして存在するわけで、大学出版事業はなにも「特定の組織と一体の活動である」と定義されたものではない。特に学術的出版ということになると、これはまさにその質その水準というものをどのような形態で社会的に拡大しかつ継承していくかということに、その基本的な役割があるわけで、どこに帰属する人間が書いたとか発表したということは二の次でなければならない。そのような観点からすると、大学と出版部との関係には一種非常にシリアスな側面があるように私には思えます。
 先ほども申しましたように出版という、ある種グローバルで、広い意味で私たちの知的生活のバックボーンをなす活動を、大学出版部が担うこと自体については、だれも異論を唱える人はいないと思います。また、大学の中にあるすぐれた知的成果を外部に発表し、かつ伝播していくことは、いつの世にもきわめて尊敬に値することですが、このことに大学がどのようにかかわるのか。この間合いの置き方については、今後いろいろ議論が必要になってくるのではないだろうか、とも考えております。

 テストされる時代

 私が認識しているところ、出版界それ自体がむずかしい状況にある。いまから十数年あるいは20年前のことを思うと隔世の感がある。ただその中でも大学出版部については、大きく変化する状況が一方にあると同時に、やはり他の出版の世界とは違う期待と希望とをわれわれはもっていますし、また社会一般も抱いているのではないか。それは何かと言うと、つまりは「学術的」ということです。一般の人々にとってはやや縁遠いものを進んで取り上げ、そこに当然つきまとうであろう経済的リスクにもかかわらず果敢に取組むという、現代社会においては得がたくなってしまったこのような要素を、大学出版部はもち続けていただきたい。そうでなければ、大学出版部とは何か、という疑問が出てきてしまうのではないでしょうか。
 私自身の体験に照らしてですが、諸外国のユニバーシティ・プレスの書物に出会うたびに、学問をする者としては、そこに第一印象としてある種の尊敬の気持ちというのがわいてくる。日本の大学出版部の場合も、おそらくそれと大いに違うということはないと思います。「学問をする」ということは社会的には決してありふれたことではない、また言うまでもなくそのことが経済的利益に直結することもない。しかし「学問をする」こと、またそこにまつわるさまざまな知的成果に接触することの、人間としてのある種の喜びと興奮、また他では味わうことの出来ないある種の精神的満足と精神的緊張というもの、これらのことを社会の中にどのようにして蓄積し保存していくかということは、決してやさしいことではないのです。
 戦後の日本社会にあって、経済を軸に社会全体のパイが拡大していくときは、そういうものも、紛れ込むようにしてであれ何であれ、社会の中で一定の位置を確保することができた。評価はどうあれ、あるいは社会の片隅であれ、そういうものがある程度存在しても特に問題になることもないし非常に冷たく扱われることもなかった。しかし、一国の文化なり知的世界というものは、おそらく順風満帆の時代にテストされるのではない、むしろそうではない時代に、その社会には、何が、精神的満足として、あるいは確固とした知的成果として存在しているのか、このことがテストされる。つまり、だれもが好きなように物を買い、本を読み、そしてどんどん豊かになり、そして楽しいことが増えていくような社会であれば、必ずしもすべての人々に共有されることのない知的成果も、社会はそれなりにとり込んでくれるが、そうでない社会状況になったときに、それらをどのようにしてその社会の中に存続させ得るかを、われわれはテストされるのです。

 「大学とは何か」をめぐって

 このことは実は、大学出版部にも複雑な問題を投げかけます。大学出版部という存在はどういう点に独自性があるのか、と考えると、言うまでもなく、大学と深くかかわり合っていることです。裏返して言えば「大学とは何か」がわかりにくくなった社会では「大学出版部とは何か」もはっきりしなくなっている。あるいは、大学とはそれ自体で、他の組織がとってかわることのできないある種の役割を果たす存在である、という社会的認識が希薄になると、大学出版部もまた社会の中で何を基準にしてものを考えたら良いのか、あいまいになってしまう。すべてとは言いませんが、そういう関係にあることは事実ではないでしょうか。
 「今日の大学とは一体何なのか」、世上の議論を繰り返すつもりはありませんが、ただ、大学というものが常にある社会においてユニークな組織として存在している、という、この何となくあった共通了解が、いつでもどこでも妥当するのか、このことはやはり考えておかねばならない。実は私、文部科学省の審議会「大学分科会」に属しているのですが、そこで「大学とは何か、ということが分からなくなる」という議論が一番扱いにくく、かつ困惑する議論です。つまり「多様な教育機関がある中で、一体、なぜこれを大学と言うのか、あるいは言わないのか」という議論が増えてきた。これは非常に大きな変化であり、深刻な問題を孕んでいる、あるいは論じられるべき問題があることを示唆している。つまり「大学」という言葉あるいはその概念は、行政が「これは大学である」とのお墨つきを与えたことだけで成り立っているのか、それともそれ以上に何か意味あるものが含まれているのか、こういう問題です。
 戦後、われわれはそういうことをあまり考えずに、大学というのはそれなりに安定した存在だと思い込んできたのではないか。しかし今日では、何となくであっても、社会的に了解されている、とは言えなくなってきた。現に、大学とは言っても色々な大学がある、この多様性を無視して「大学」と一括りにしてしまって良いのか、という議論がある。さらに、たとえばある観点からは、学部と大学院の問題も非常に大きくなってきた。われわれは長い間、大学というと何となく「学部」のことを考えてきたけれど、文科系においても「大学院」に対する社会的注目度が急上昇してきた。このことが一体どのような意味をもつのかについては、実は諸説紛々です。他方には「短期大学」というものも、もちろんある。つまり、われわれの周辺でいま起こっていることは、「大学という概念の多様化」と言ってしまえばきれいな表現になるけれど、これらのことはある意味では「大学の解体」かもしれない、あるいは行先不分明な漂流であるかもしれない。立場によってさまざまな議論が成り立つでしょう。が、それはともかくとしても、それぞれの「大学なるもの」がどのようなものであろうとするか、についての自己定義をより明確にしなければならない、このことだけは非常にはっきりしてきた、と私は思います。このことにかかわってもう一つ盛んに行われている議論に「教養教育の重視」というのがある。多くの大学で教養部あるいは教養学部を解体したばかりなのに、今度は教養教育重視という議論は一見奇妙に思えますが、これは組織の問題であって実態の問題ではないのかもしれない。判で押したように「専門性と先端性こそが」という議論をする人が同時に必ず「教養教育の必要性」という話をする。大学関係者はその間を右往左往する、そのようなことも少なからず見られるのです。

 「人間としての創造性」への途

 ではここで視点を移して、大学をめぐる世界の議論をみてみると、そこにはある傾向がはっきりと浮かび上がってくる。その一つが、大学とは「知識基盤型社会に必要な人材育成の場」という議論、そしてもう一つが「人間としての創造性養成の場」、英語風に言えば、学生をいかにしてカルティベートしていくか、という議論、この二つの議論がほぼ並行して行われている。そして、知識基盤型社会とか先端的教育ということを先駆的にやってきた大学の関係者は、いまはもっぱら「人間としての創造性」の方を声高に主張していると、そのように私には感じられる。しかしこの創造性云々の議論ほどむずかしいものはない、どうして良いのか分からない。日本では「大学の個性について」の議論がよく行われますが、「個性」というのは何を意味するのか、単なる目立ちたがり屋なのか、あるいはちょっと変わっているということなのか、よくわからない。ただ間違いないことは、大学は「なるほどと肯けるような何かを持っていなければならない」ということです。
 このような議論の中で、カルティベートしていく、人間としての能力を培っていくという、こういう意味での教育的機能というものは一体どのようにしたら果たすことができるか、これが議論の焦点です。さまざまなことが言われていますが、私が見るところ結局、特効薬はない。けれども、Aという先端的知識を身につけるにはこんな勉強をすれば良い、というようなことからは答えは出てこない、このことについては多くの論者にあっても、ほぼ同じような認識なのではないか、と私は思っています。
 さてこの問題についての私の認識は非常に拙いけれど、ある意味ではごく単純なことではないか、と考えています。こうすれば必ず成果があがる、と自信をもって言えるわけではないのですが、何かしなくてはならない。それでその何かとはやはり、一定量以上モノを読み、モノを考え、モノを書くという、この基本的行為ではないか、と思うのです。私の大学にハーバード大学教授がアドバイザーとして来てくれているのですが、たとえば、「アメリカにもさまざまな大学があるから一律には言えないが、やはり基本的には、読む量と読みこなして書く量が、日本の場合、決定的に少ない」、こういうことを彼はサジェストしてくれました。まあ一概には言えませんし、大学で、たくさん読んで、たくさん書いたことが、すぐに具体的に何かの役に立つということではないにしても、いわば触発というのか、あるいはそういう種を蒔いておけば、何が出てくるかは分からないが、とにかく耕すという行為を通して結果として何かが出てくる。あるいは直接的には芽を出さなくても、それを繰り返していることが、長い目で見ると「人間の在り方」の深いところに影響を与える、ということはあり得るに違いない、と私は思うのです。

 あらためて、大学出版部の役割について

 このようなことを思いながら、大学出版部の役割についてあれこれと考えてみて、すべてがそうだとは申しませんが、少なくとも人間の知的な根っこと言いましょうか、根本的な所と何らかの形でかかわりをもつような役割を果たしてもらいたい、と私は考えます。たとえば一体どのような本を読めば良いのか、というようなこと一つをとっても、もちろん色々な議論があり、むずかしいことは言うまでもないのですが、何も読まない、何も認識する努力をしない、何もフォローする努力をしない、そういう人間だけが集まった社会では、きちんとした議論や物事のきちんとした決着は図れない、このことだけはどうやら確かであり、とすると、大学出版部がどのようにして大学の「知の在り方」とかかわるかということは、非常に大きなテーマになってきます。「知の在り方」の一つである先端的知識にかかわるのは当然かもしれないが、同時に、その効果が目に見えるかたちで出てくるとは限らない、二〇代あるいは三〇代では出ないかもしれない、しかし四〇代、五〇代に出てくるような、そうした「知的習慣づけ」(と私は呼んでおります)、この習慣は若いころ身につけておかないと歳取ってからではとてもむずかしいのですが、そういう人間にとって非常に大事な習慣づけ、これが大学の大きな仕事だろうと思いますが、そうした習慣づけにとって有効な素材を提供するのが大学出版部ではないか、このように私は考えています。
 大学をとり巻く環境は確かに大きく変わりました。また「大学の在り方」ついても、かつてのように漠たる概念ではとらえられなくなりました。しかし大学は、先端的知識の領域と人間の知的根幹を形成する領域、少なくともこの二つの領域にはしっかりと目を据えておかねばならない。大学出版部が、大学のこのような役割とどのように付き合っていくのか、大学出版部の今後の舵取りに、私は大きな関心を抱いております。ご清聴ありがとうございました。
(東京大学総長)



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