「非知のエコロジー」が目指すもの
馬場 靖雄
98年に物故したドイツの社会学者ニクラス・ルーマンはかねてより、自身の社会システム理論の対象は、システムそのものではなくシステムと環境の差異であると述べていた。もちろんここでは「環境」という言葉は、エコロジーで扱われる自然環境とは異なる意味で使われている。しかしルーマン理論において環境がどう論じられているかを見ることを通して、現代社会が直面する環境問題にアプローチするうえでのヒントを引き出しうるようにも思われる。
われわれが何かをひとまとまりのもの(システム)として考察しようとする時、その対象は常に何らかの周囲(環境)の中に位置している。生物も人間も集団も社会も、あらゆるシステムは複雑な環境の中で自己を維持する統一体であり、したがってシステムが有する複雑性は環境よりも小さい。ルーマンの壮大な社会システム理論の出発点であるこの単純な命題から、次のような発想を導き出すこともできる。システムをそれ自体自己完結したものとして扱うだけでは不十分である。システムの内側にのみ目を向けていたのでは、環境がシステムに及ぼす、また環境に対してシステムが与える複雑な影響関係を十分に考慮できないからだ。今やわれわれは目を外へと向け、システムと環境との調和の取れた関係を構想すべきである云々。「外へ目を向けよ」というこの種の発想が、環境経済学や環境倫理学を初めとして、現在いたる所で登場してきているのは容易に見て取れるだろう。前者ではこう主張される。従来のように、経済を生産と消費からなる閉じられたサイクルとして捉えるだけでは不十分である。そのようなイメージは、資源としての、また廃棄物の投棄先としての自然が無限の容量をもつとの誤った前提を措いていたからだ。今やわれわれは、経済のサイクルと、その外側に位置する有限な自然との関係を考慮しつつ、持続可能な社会のあり方を模索しなければならない。この議論はもちろん間違ってはいないし、必要かつ有益なものではある。しかしそこにはある種の落とし穴が含まれているようにも思われる。
社会システム理論においてこの種の発想をいち早く提起したのは、ルーマンの師匠格にあたるタルコット・パーソンズだった。パーソンズは社会システムが自身を維持していくためには「適応・目標達成・統合・潜在的パターン維持」という4つの機能(頭文字を取って「AGIL」と呼ばれる)を満たさねばならないと考えた。彼はまず、社会を構成する4つの領域(経済・政治・共同体・文化)それぞれがAGILの機能を担うことを示そうとした。そして次のステップとして、全体としての社会が、より包括的な「行為システム」の1機能を担当する1セクションであると主張した。要するに、総体としての社会のその「外」を考えようとしたわけである。そしてこの社会学者の最晩年においては、行為システムのさらに外に広がる、およそ人間が体験しうる世界そのものを包摂する「人間の条件」システムが構想された。自然環境はこのシステムのA部門に位置づけられることになる。
より包括的な「外」へと弛むことなく歩み続けようとするパーソンズの試みを振り返ってみて気付くのは、そこではシステムとその環境の関係が、より包括的なシステムの内部関係として把握されているということである。「システムと環境の関係を考慮せよ」という方針は、「より包括的なシステムを考えよ」ということに他ならない。したがって当然のことながら、「その包括的システムのさらにその外があるはずだ。それを考慮しない限り議論は不十分なままだ」という話になる。これは先に述べたような「外に目を向けよ」という議論の大半に関しても当てはまるだろう。だからこそこの種の議論は、「さらにその外」を求めて果てしなく続いていく。そして時には、パーソンズの場合のように壮大すぎてほとんどコメント不可能な地点まで至ってしまう。あるいは「自然の権利」を極端なかたちで強調するある種の論者のように、本気で受け取っていいのかどうか迷うような地点にまで進んでいくことになる。従来は「権利」というものは人間のみが有するとされてきた。しかし今や権利概念はより拡張されて「外」へと適用されねばならない。動物にもまた権利が認められるべきである。いや、樹木ですら権利をもち、法廷に立つことのできる当事者適格性を有するはずである云々。
一方ルーマンによれば、システムと環境の差異を考えることはできても、両者の関係について語ることはできない。環境は、システムと関係を取り結びうるような確固とした同一物ではなく、あくまでも複雑で捉えきれない残余にすぎないからである。もちろんわれわれは常にシステムと環境の関係について語る。しかしその場合の「環境」は、特定のシステムの内部において引かれた「システム/環境」の区別に基づくものとなってしまっている。それは環境そのものではなく、あくまでシステムから見た環境にすぎない、といってもいい。従来の経済学や社会学は自然環境を十分に考慮してこなかった云々と述べるのは正当である。しかしその時考えられているのは、経済学や社会学の視点から切り縮められ単純化された環境に他ならない。例えばコスト計算の対象としての自然であり、あるいは社会とは区別されるべきものとしての自然である。「社会/自然」という、今日では問題がないように思われる区別は、かつては決して自明なものではなかった。中世神学においては自然の反対項は神の恩寵だったし、近世においては自然は文明や精神に対置されていたのである。
ルーマンがしばしば引き合いに出す特異な数学者、スペンサー=ブラウンにならっていえば、システムにとっての環境は、「システム/環境」の区別が、当の区別の一方の側であるシステムの中へと再参入(re-entry)することで生じる、ということになる。例えば「動物/人間」という区別は、この区別の一方の側である「人間」の内部に再参入するかたちでしか用いられえない。動物の側でそんな区別が問題になることはないからである。
したがってルーマンにとって環境についての知とは、再参入を通して見た環境に関する知に他ならず、そこではどうしても「再参入によって眺められた環境/環境そのもの」というずれが生じてこざるをえない。その意味で知を獲得することは、同時に非知を産み出し拡大することに他ならない。だからこそルーマンは、晩年の論文集『近代の観察』(拙訳、法政大学出版局)の約3分の1を占める論考を「非知のエコロジー」と題しているのである。しかしここでいう「非知」は、単に克服されるべき状態としての「無知」とは異なっている。第一にそれは常に新たに生じてくるものであって、そもそも克服することなど不可能である。第二に、非知は決してわれわれを躊躇させたり行動を思い留まらせたりするだけではない。むしろ今日では、長期的な、あるいは微細にまで及ぶ環境への影響ないし環境からの影響を知れば知るほど、何もかもが危なっかしくて何も行動できないという状態に陥りかねない。あるいは高度な技術を駆使すればするほど、かえってカタストロフィの危険が高まってしまう。しかし何もしないこと、技術を放棄することもまた固有のリスクを孕んでいるのである。そのような状況下ではむしろ、非知こそがゴルディアスの結び目を両断する剣となってくれるかもしれない。蛇足ながら、現在の「唯一の超大国」の指導者や、日本で絶大な人気を維持している一部の政治家の単純きわまりない言動が、ある種の爽快感をもたらすものとして歓迎されているのも、今述べた事態が背景となっているようにも思われる。
そもそも環境問題が単に現実的な課題としてだけでなく、社会思想・社会理論にとっても衝撃的だったのは、それがわれわれに非知のまま行動することを強いるからではなかったのだろうか。問題は単に、われわれは今まで人間中心主義がもたらす視野狭窄のゆえに自然を十分に考慮してこなかった云々ということではない。単に思想が、態度が誤っていた、今や正しい思想へと「改心」する必要があるなどという話ではないのである。
では重要なのは、環境について論じるさまざまな論者が実は「自分は何が問題なのかをよく知っている」と自称しているにすぎないことを暴露し、それら論者に対して自分が抱えている非知を自覚せよと迫ることなのだろうか。「王様は裸だ」と叫びさえすればよいのだろうか。しかし事態はもう少し複雑である。というのは第一に、そのような指摘は逆に自身が環境問題に関する正しい対処方針を知っていると称しているのだから、やはり知を自称していることになる。自分は非知の知をもっている、つまり知らないということを知っているのだから、知っていると思いこんでいる連中よりも物事をよくわきまえている、と。しかしそれもまた知の自称にすぎず、独自の非知を産み出さざるをえない。第二に、「特定の観点から語られた環境/環境そのものの」という食い違いは、つまりは非知は、それ自体として存在するものではなく、むしろ語られることによって初めて生じてくるのである。したがってこの差異について論じようとする者は、環境に関するさまざまな議論をむしろ推奨し育成しなければならないのである。
知は自身の非知を知らねばならないとしても、そのことによって語りえなくなるわけでも、よりよく語りうるようになるわけでもない。知は常に、自分があたかも知っているかのように語り続けざるをえない。その意味で、ルーマンが好んで引くバルタサル・グラシアン(1601―1658)がいうように、偽装(dissimulatio)は知にとって不可欠の要素なのである。環境問題をシリアスに受け止めつつも、そうする自分をシリアスに受け取ってはならない。しかしまた、「シリアスに受け取っていない」という状態に安住してもならないのである。
環境問題はわれわれの知の布置全体に対して、大きな方向転換を迫っているように見えるかもしれない。しかし常に方向転換を求めること自体が、近代的な知の布置そのものの産物に他ならない。何かひとつの手(move)によって一挙に地平が開けることなどありえない。たとえそれがいかに画期的に見える「学際的」な試みであっても同じことだ。むろん環境問題は今日においてますます切迫したものになりつつあり、不断の対処が不可欠になっている。しかしあらゆる対処は、その前提となるあらゆる知は、それ自体としてまた非知を、不透明さを産み出していく。したがって何らかの知的転換によって最終的に透明さに到達できるなどとは考えるべきでないだろう。しかしにもかかわらず、というよりもむしろそれゆえに、われわれは常に語り続けなければならない。透明さに達すればそこではもはや、なすべきことがなくなってしまうだろう。
したがって、「非知のエコロジー」の結論はこうである。「透明性は非生産的かもしれない」(『近代の観察』160頁)。
(大東文化大学経済学部教授)
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