環境問題と「文理融合」

松井 健



 複雑巨大な問題を前にして

 このほど東京大学出版会から刊行された『島の生活世界と開発』という全四巻のシリーズは、日本学術振興会未来開拓学術研究推進事業「アジアの環境保全」のひとつのプロジェクト「開発が地域社会に及ぼす影響とその緩和方策に関する研究」の成果である。「アジアの環境保全」全体は、私たちのものを含めて、いくつもの並走するプロジェクトからなっていて、その間でも全体とりまとめのための議論が何回もおこなわれた。こんなおりには、必ずといってよいほどに「文理融合」が、理念として、方法として、本音として、話題にのぼった。グループ間であれ、個人間であれ、環境(問題)というような大きな研究対象そのものが文と理の区別以前の、複雑で巨大なかたまりをなしているときには、文系専門家と理系専門家、文系専門領域と理系専門領域が協調協力しなければならないのは、あまりに当然のことであり、ほとんど論じるまでもないことであった。当然、議論は表向きは、いたって正統な理想論となったが、すくなくとも私は、何か釈然としない印象から抜け出せなかった。
 こうした議論では、文系と理系という二つのはっきりと分かれた分野があって、研究者はそのどちらかに属する専門家であることが大前提となっているように思われた。そして、文理融合は、環境問題というような文理両分野にまたがるテーマのための、ごく戦略的な対処とみなされているように感じられた。文理融合のイメージは、どちらかというと、既存の文系のある学問分野と、理系のある学問分野との同一の課題への両面からの近接というものであるらしく感じられた。
 はたしてこのようなイメージで、文理融合の成果をあげることはできるのだろうか。すくなくとも、環境問題のような複雑巨大な課題に接近するために、個別の専門分野にこもっていては駄目だという実感からすると、この文理の接合ではたして、大きな成果があげられるのか、危惧しないではおられない。
 単なる文系専門領域と理系専門領域の協力というのではなく、むしろ、文理融合によって、文系でもなく、理系でもない、現実に即した対象の拡大や新しい方法論の構築がおこなわれないと、複雑巨大で対処を早急に迫る今日的な問題に学問は対応できないのではないだろうか、と漠然と考えられた。こうした感想には、私自身のすこし不規則な学問遍歴がかかわっているのかもしれない。

 文理漂流の体験から

 私自身、京都大学理学部とその大学院に4年間在籍したおりに、理系研究者となる基礎的教育の一環として、「アジアの環境保全」の推進委員会の委員長であった川那部浩哉助教授(当時)の生態学、亀井節夫教授の地史学、日高敏隆教授(現・国立総合地球環境学研究所所長)のエソロジーの集中講義、岩槻邦男助手(当時)の植物実験材料の実習やシダ植物についての洋書講読、もちろん恩師となった伊谷純一郎先生(故人)のチョークとタバコをとり間違えないかと思われる「せわしない」人類学や霊長類学の講義などを聞くことができ、今も、その「知の饗宴」というべき授業の場面のいくつかを鮮明に想い出すことができる。紛争後、学部における学科分属はなくなっていたので、ほかにも、友人の影響があって、数学基礎論やら論理学を、わからないなりに勉強した。当時流行し始めていた構造人類学とレヴィ=ストロースについては、どんな文献でも入手できるかぎり読もうとしたし、伊谷先生の授業のなかにでてくる文化人類学や社会人類学関係の学説や文献については、自分でより詳しく勉強した。文系についての講義は、教養時代の河野健二教授(故人、私の助手時代に京都大学人文科学研究所所長)の経済学入門や、たしか国語学という科目だったかと思うが、柳田国男についての授業のほか、フランス語の大橋保夫教授(故人)の厳しい語学授業が思い出に残っているし、レヴィ=ストロースの『野生の思考』の講読にフランス語フランス文学の大学院生に混ぜて加えていただいた。ちょうどその頃、山口昌男の『未開と文明』という訳編著が出版され、この本とその文献表は、われわれ世代の、東京大学や東京都立大学で、正規の文化人類学、社会人類学の大学院コースのあるところ以外で学んでいた人類学志願の学生に大きな影響があったものと思う。簡単にいえば、理学部の学生、院生としてではあったが、このように文と理を行き来しながら、私は正規のコースにない人類学をやらなくてはならなかった。博士課程2年で私は京都大学人文科学研究所西洋部の助手に採用されて、形式的には、理系から文系へ移ることになる。

 越境の志

 おそらく、このように、修行時代に文と理を往還した研究者は、けっこういたことと思われ、私より上の世代の文化人類学者では、けっこうそのような人が目につく。私のようなものには、文理融合の正統な論議には、明らかに大きな前提の欠陥が感じられてしまう。それは、発言している人たちのほとんどが、文か理か、のどちらかの立場に立って、文理融合の必要性は論じるものの、本人は文か理のどちらの守備範囲にいて、そこの論理から一歩も出ようとしないところである。理系の研究者の誤りは、文系の学問は口先だけでどうにでもなると思っているところにあり、文系の研究者の誤りは、理系は実験であれ形式科学であれ、痛切な今日的問題にかかわらないと考えている、というような、そのような本音の悪口を言いあうことだけが必要だといっているのではない。むしろ、研究者個人のなかに、理系方面と文系方面の両方にかかわる目標設定、研究方法、成果についての知識を自分のものにしたいという強い意欲がないように思われることが、もっとも大きな問題であろう。もちろん、今日とくに忙しい一定年齢以上で、それなりの役職をもつ研究者にそれは容易なことではなかろう。
 文系の研究者でも、環境との関係でよく、動植物の学名を書く人がいる。しかし、ほとんどの人が、ラテン語の学名と標準和名がどういうものであるかを知らないようだ。属名と種名をラテン語で書くときには、イタリックにするという作法すら守られない。時代がかわると、この学名も変化し、命名者名もかわり、ときには、別属に移ったりするのがなぜなのかは、まったく理解の外のようにみえる。標準和名についての理解もそのようなものであろう。しかし、それでも、学名が使われる、まるで何かの呪文のように。こうした文系研究者は、環境という自然にごく密着した分野を研究対象としながら、生物の分類や命名について、リンネ以来おこなわれてきた博物学と生物学の歴史を知らないし、知ろうともしていないのである。これは、きわめてシンボリックなことではないだろうか。環境の研究者が、学名についての関心を欠いていて、動物や植物そのものについて十分な興味をいだくはずもなく、そのような研究者が環境を「研究」するというときには、明白な欠落が生じるだろうと懸念するのは私だけではあるまい。
 文と理を漂流するという経歴をもたなかった人にとっては、若い頃にこの両方の基礎的なトレーニングを受けていないことは、決定的に不利だということはわかるが、しかし、とくに環境というようなテーマにおいては、個人の、越境しようとする強い意欲がないかぎり、文理共同研究の有効性はまったくおぼつかない。「私の専門としております、××学では」というのは、ほとんどナンセンスに近い。××学が、環境にかかわる問題系への有効なアプローチを約束しているわけではない。むしろ、こうした××学は、適切に抽象化された対象を設定し、そのための方法をつくり、その枠内でのみ対象を調理して、これまでその腕前を競ってきたから、21世紀になって、学問のほとんどが現実から遊離して、ほとんど好事家の閑なたわごとになってしまったのではなかっただろうか。20世紀も末になってからは、環境(問題)だけではない、国際的な政治や経済の問題について、学問が有効な視座を提示しえた例をみないのではないだろうか。

 学問批判から21世紀型のアプローチへ

 理系か、文系を問わず、まず、既製の学問体系の全体が構えている、対象の限定と純粋化、方法の選定といった約束事を明らかにして、それを批判的に乗り越えないと、環境問題というような、私たちがそのなかで生きていかなくてはならない現実の複雑怪奇な巨大問題系を扱うことはできないであろう。そして、おもしろいことに、文と理の間を往還することによって、この批判的視座は、より容易につくられることであろう。というのは、それぞれの学問分野の構えている約束事は、この2つの領野で、かなり質が違っているからである。
 おそらく、専門分野のなかには、多くの約束事があって、それをよく知っているのが専門家であり、そのなかで研究蓄積を積み上げることが、これまでその学界でもっとも重視されてきたであろうが、これから現実に生起する21世紀的な問題へのアプローチのためには、とにかく、どのようなかたちからであれ、狭い専門領域を越えた文理融合が、実践されなくてはならないだろう。実際の文理融合は、本当のところは、研究者各自が、自己の専門分野の狭さについて痛切な意識をもって、程度はいかにあれ、文理の両方を「自分でやる」以外にはないのではないだろうか。
 一人でそれをおこなうことが、前述のように困難だったら、日常的に文理両方の分野の研究者が参加している研究会で、興味のもてるテーマをかかげているものに、とにかく参加してみることもよいであろう。若い研究者は、とくに、このような機会を積極的につくるべきだし、自分ではもう無理だと思う年配の研究者は、若手のためにそういう機会を用意、あるいは配慮することが必要であろう。文側であれ理側であれ、既製の学問は、とり出してきてくっつけて文理融合になるだけの柔軟さをもうすでに失っている。この自己認識があれば、なぜ、個々の研究者が自ら文理融合することが必要なのかは、ほぼ、自明のことのように思われる。むしろ、文であれ理であれ、20世紀の学術研究において専門領域とみなされてきたものが、それほどに狭く、研究者側の都合から、純粋な(現実から離れて、現実に交差関与する事項のすくない)研究対象を設定して、ここ200年ばかりの間にあまりにも複雑巨大化した身近な現実問題から離れてしまい、かつ、自分たちが勝手に設定した対象と方法のなかに自閉してしまっているかを知ることのほうが、本源的な問題なのではないか。かえって、その批判に新しい学問の芽がみられるのかもしれないが。
(東京大学東洋文化研究所教授)



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