アメリカの大学教科書
松井 範惇
アメリカの都市、町へ行く時、私はできるだけその土地の大学を訪れる事にしている。その時必ず行く所は、図書館と大学書店である。図書館では入っている学術雑誌の種類と数を見て、ITアクセスを調べる。書店では教科書のコーナーへ足を運ぶ。全ての学部の全科目のその学期の教科書がびっしり並べられ積まれている。棚には、授業科目名、講師の名前、教科書名、副読本、売り切れた本はいつ入荷するか、などが書かれたカードが整えられている。それらを眺めて本を手に取り書棚の間を歩き、各授業で先生方がどんな授業をするのか、シラバスの組み立てはどうなっているか、学生へのアサインメントはどうするのか、論文提出はあるのか、などを想像するのはとても楽しい。
時には床に座り込んで読みふける事もある。こんな楽しい時間の過ごし方があるとは、TA(助手)としてハーフタイム(週20時間)で教え始めた時には知らなかったし、フルタイムで自分の授業を始めた1983年にも分からなかった。1986年に3つ目のリベラルアーツ大学で教えるようになって、ようやく教える事の楽しさと恐ろしさが分かるようになった。大学書店に並ぶ教科書や副読本の山、これが何故毎学期、授業開始1週間前から出るのか、それがどのような意味があるのかがその頃になって分かってきた。
学部レベルの授業は、アメリカの大学では講義(レクチャー)だけのものは殆どない。授業(科目)は、コースやクラス、または学習(ティーチング&ラーニング)といい、一方通行の講演や演説だけをする授業はない。教員が教え学生が学ぶだけではない。学生は他の学生に教え、教員にも教える。教員は授業を通じて学ぶ事も大いにある。そういうプロセスが大学全体で推奨されている。
アメリカの大学で教えていて、教科書の選択にはとても気を使った。それは何よりも、採用する教科書の善し悪しが、シラバスとともに、その授業の成否を大きく左右するからである。その理由の第一は、教科書の質には敏感に学生の反応があることである。学生からポジティブな反応のある事は少ないが、逆にそれほどでもない教科書を使っていると、わかりづらいとか、どう読んでも理解できないというネガティブなコメントは必ずくる。特定の学生の勉強不足のせいではないことが見えてくる。第二は、その科目の目的、レベル、学生の準備などで適切な教科書を使っていないと、特にテニュアー前の教員の場合は、2年でもそのような事を続けてやっていると必ず首になる。それは、大学学部での授業では学生の理解を助ける事が教員の最大の任務・役目だからである。大学全体でそういう学生の学習体験を大事にする様々な仕組みがきちっとできている。教員はそのために雇われているのである。
アメリカにおける大学の授業で、教科書が大事な理由は他にもある。まずは、実験や学外授業、フィールド・ワークなどを中心とする科目以外では、教科書を使わない科目はないことである。多くの科目では出版社から出される多彩で良質な教科書がとても便利である。多くの教員は、教科書として出版されたものと、副読本として様々な種類のものを組み合わせ、自分の分野での面白い科目を構成しようとする。そのような教員のインセンティブ、大学側からの要請(評価)、そして学生からのフィード・バックは、質の高い大学ほどシステムとしてうまく働いている。
次に注目すべきは、大学全体の教員の質は、大学の命運をも左右すること、その要は授業そのものであり、教科書・教材を使った授業の質にあることである。様々なファカルティー・ディベロップメント(FD)のプログラムで、新しい分野の授業に挑戦する教員への援助や、チーム・ティーチングの取り組みを進めたり、授業の改善の仕組みを考えたりする。教員の全般的能力向上は良い授業をする要である。いかに良い授業をし、いかに学生に学ぶ意欲を起こさせるかは重要である。良い教科書の選択と適切な副読本、練習問題集などの組み合わせは、その大切な要素である。
新しく教員を採用する場合、研究業績はもちろんだが、どの分野・レベルであれ、教育実績、つまりそれまでの授業評価の記録を見ないで採用することはあり得ない。学生の授業評価のまとめとシラバス、どの教科書を使い、どのように学生に分かりよく教えたか、どのように授業を組み立てたかは、新任教員採用ばかりでなく、昇進やテニュアー審査でも極めて重要である。
1983年に初めてフルタイムで教え始めた時には、私はその前年4つの大学にポジションを探し、書類を出し面接をした。1985年から別の大学で教え始めた時は、その年の1月に、6つの大学で面接があった。1986年から教えたアーラム大学での職を得た時は、1985年秋から120以上の手紙を出した中から合計約25の大学と接触した。ほぼ全ての大学で、授業に関して教科書とシラバスについて質問のでないことはなかった。私が何を考え、何を重点にし、いかに学生を大事にするかを考えているかを知りたいのだ。教員は、お互いに良い教科書、使いにくい教科書、自分の好みにあった副読本などについて議論するのを好む。
逆に、1992年12月、カリフォルニア州アナハイムで開かれたアメリカ経済学会の年次総会では、私は3日間缶詰で15人の面接をした。翌年の秋学期からアーラム大学で1人欠員を補充するためだ。政治経済学、労働経済学が教えられ、国際研究でも有用な役割を果たす人が、アシスタント・プロフェッサーのレベルで必要であった。研究に関する専門分野の面談項目以外に、現在のポジションで、どの教科書を使ってどのように授業を進めているか、今後はどのように進めたいかを尋ねることは必須の確認項目であった。この面接の時の情報を学部に持ち帰って、他の教員と一緒に次の段階の候補者絞りをやるのである。教科書の使い方を聞くと、その人の授業が分かる。
こうして、教科書選びはとても大事な役割を果たしていることが分かるだろう。大学教員が教科書を選ぶ際の、1つの側面は、おそらく日本では見えないものであるが、単に教科書そのものだけを選ぶのではなく、1セットとして様々なものが付随してくる。教師用のインストラクターズ・マニュアル、教師用の問題集(解答例付き)、学生用練習問題集(解答ヒント付き)や、箱入りOHP集、または冊子、それらを集めたフロッピーやCDとか、事例集別冊子などが、教師用、学生用に用意されていて、授業に採用するとそれらのものが自由に使えるし学生にも便利である。
例えば、経済学の入門レベルの科目では、本体500−800ページの教科書に対して、全部ではその3−5倍のものがどさっと送られてくる。教科書本体もハード・カバーのもの、ソフト・バウンドのものと様々である。自然科学の分野では、800−1000ページのもので教科書本体だけで、200ドルもするものも出ている。
さらに、副読本、練習問題集、重要参考文献論文集、などは大学院、専門大学院などでは欠かせない。これらを各出版社では、それぞれ得意な分野で、大学教員の必要性をにらみながら良いものを出してゆく。例えば、国際関係論などの分野では、世界の主要な雑誌、論文、新聞などの論説から学生にも分かりやすいものや重要なものを編集し、副読本として教科書の補完物となるものを出版する。これは教員にはとても有り難い、有用で意義のあるものである。
『フォリン・アフェアーズ』誌を出しているCouncil on Foreign Relations社は、教科書専門出版社ではないが、大学教員に働きかけて教員の教える科目の必要に応じて、同誌からの論文を集め、簡易製本にした副読本を必要な冊数(クラスの学生数)だけ作り、実費で提供するというサービスを行っている。これは版権と複製の問題を一挙に解決してくれる。私も「日本経済論」を教えたとき使ったことがある。過去の論文をバラバラ集めて学生に読ませるより遥かに効率的だ。宿題にも使えるし、授業の討論にも良い材料になった。
アメリカの大学教科書では、出版側、教科書業界も大きな役割を果たしている。良い教科書、売れる教科書を多く出す出版社は、版を重ねることにより儲かるし、名声も高くなる。大手出版社のいくつかは、それぞれ教科書部門を持っており、他の部門の赤字を教科書部門の黒字で埋めることができる。他の物価に比べて教科書、書籍類の価格は、アメリカでは極めて高い。分野にもよるが、100−150ドルする教科書もざらにある。毎学期学生は3、4科目とると、教科書代に500ドル近く支出する。
学生は一度使った教科書をその学期が終わると、大学の書店に売る。書店は、ぼろぼろになっていなければ、買い上げて次の学期、次年度用に中古本として次の学生に売る。また、各大学の書店間で交換される。出版社側では、中古教科書ばかりが出回っては困るので、著者と相談し、「最新の現実問題をより多く取り入れ」、「新しいトピックを扱う」、「より学びやすい工夫を凝らした」、「最新の理論を紹介する」などのキャッチフレーズをつけて、3−5年で新版を出す。その時に、さらに売れるかどうか、使われる教科書かどうかの判断がなされるのである。
アメリカ大学の教科書出版に関しては、「出版社の徹底した対応」にふれなければならない。出版社は地域ごとに教科書担当の広報・宣伝の専門家を雇っており、かれらは年に1、2度担当地域内の大学を訪問する。教員に見本を配り、カタログを渡して新版の説明をする。教科書採用予定の科目を聞いて歩き、サンプル・テキストの注文を取る。カタログは分野別、レベル別、専門性の高さ、総合性などに分類されており、とても見やすい。授業用に良い教科書を探そうとする教員に対応しようとしている。
このように、アメリカの教科書事情は、大学教員側の良い授業をしようという需要サイドと、良い教科書、売れる教科書を出そうとする供給サイドの相互作用であることが分かるだろう。その接点は、授業そのものであり学生にある。それを支えるのは大学の競争という仕組みと伝統である。
日本の大学教科書は、多くの場合、教員の研究者としての研究成果をまとめた学術刊行物であるといわれる。そのため、授業で使うには教員にとっては不満が残り、学生にとっては消化不良のまま学期が終わるといわれている。日本の大学教科書は、教科書として書かれたものがもっと出回り、教科書市場として広がることが望まれる。良い教科書の必要性は今後もますます大きくなるであろう。
(山口大学大学院東アジア研究科教授)
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