大学の「教科書」の昔と今
竹内 洋
高校時代までの教科書のイメージをもっている人が大学生になってびっくりするのは、教科書の意味が大学ではずいぶんちがうことである。教科書「を」教えるのではなく、教科書「で」教えなければならないといわれるが、それでも高校までは、教科書にそった標準的知識が教えられるから、授業と教科書の乖離は少ない。ところが大学では、教科書に指定された本と授業内容の乖離は大きい。
いまは、少子化や改革で大学もかなり学生本位になったから、教科書と授業の乖離も少なくなったが、20年以上前までの日本の大学は教師本位の大学であったから、大学の教科書は教科書というよりスキャンダルじみてさえいた。わたしが大学教師になったのが、いまから約30年ほど前、1973年だった。石油ショックでトイレットペーパーの買占め騒ぎがあったころであるが、教科書をめぐって本当に驚いたことがある。
私立大学は学生数が多いので、学年末の試験ともなると、授業担当以外の教師も試験監督にかりだされる。わたしと2人の専任教師が、非常勤講師の「○○社会学」の試験監督にいった。そこでかなり驚いた。「教科書持ち込み可」という条件はあったにしても、この非常勤講師の先生が書いた学位論文をまとめた上下で数千円――いまの物価に直したら、一万数千円――の本を、数百人が持ち込んでいたからである。試験がはじまると、この日か前日、大学の近所の本屋で購入し、試験開始とともに、はじめて「教科書」を開くものが多いせいか、バリバリという紙の音さえするのである。
試験がおわってから、同じ試験監督をした年輩の先生に「あれは、ちょっとひどすぎますよね。学生がかわいそうだ」といったところ、かえってきた答えがふるっていた。
「きみ、非常勤講師手当ては安いのだよ、ああして毎年学期末に上下の何千円もする本が何百冊か売れるからこそ、○○先生も、うちの大学にきてくれるんだ」。さらに、この先生はこうつづけた。「なあに、ほとんどの学生は授業にでてこないのだから、4単位を数千円で買えるのなら、安いもの」と。教科書持ち込み可という条件を呈示する先生にありがちなことだが、授業にほとんどでていなくて、「教科書」の丸写しに近い答案を書いても、可をあたえるからである。ということは、学生はほとんど授業にでなくて、その間、アルバイトなどをすることができる。試験のときにアルバイト2日分くらいのお金を支出すれば、単位がとれるということになる。だから、安いものなのだというのが年輩の教師の説明だった。○○社会学の概論とは遠い、専門的な学術書を上下で買わされる学生がかわいそうだとおもったものだが、そんな裏があったのかとあきれもし、妙に感心もした。
そのあとしばらくして、この大学の近くに古本屋へ立ち寄ったときに、また妙なことにであった。この大学の教科書とおぼしき本が、二束三文の値段でぞっき本コーナーに積んであった。手にとってみると不思議なことに、奥付の前の頁に、ミシン目が入っている。しかも、古本屋にある本は、ことごとくミシン目の部分が破られてしまっているのである。
さきほどふれた教科書使用模様がショックだっただけにひょっとしたら、これも教科書を学生に買わすための仕掛けではないだろうか……とおもった。そこで、くだんの年輩の先生に聞いてみた。
わかったことはこうだった。教科書を確実に売るために、巻末にミシン目を入れたレポート用紙をつけていたのである。単位認定にかかわるレポートを提出するためには、この教科書につけてある専用のレポート用紙を使わなければならない。市販の原稿用紙などに書いても受けつけない!のである。教科書を古本でかったり、先輩からもらったりしても、「専用」レポート用紙は使用されてしまっているから、駄目。内容がまったくかわっていないのに、レポート用紙確保のために新本を買わなければならないという仕掛けがほどこされているのである。よく考えた仕組みであるが、あこぎなやりかたではある。さすがに、わたしが赴任した当時は、こんな教科書を使っている教師はいなかったが、わたしの赴任数年前までは、結構、この種の商魂逞しい教師がいたらしい。しかも、ミシン目を入れた専用レポート用紙つき教科書は、この大学にかぎらなかったようである。
わたし自身の京都大学での学生時代は、教科書をめぐってここまでのあこぎなことはなかったが、問題はあった。たとえば、教養課程の政治学の授業で、担当の教師の翻訳した本が教科書になっていた。教科書が翻訳であってもよいが、政治学入門の概説書であればの話である。しかし、指定された教科書は、イギリスのある特定の政治学者の政治学説についての解説書である。これでは政治学入門書というより、特定のテーマの専門書である。しかも、授業では、この「教科書」を説明するわけでもない。単に販売用に教科書として指定されているだけというありさまだった。
そんな時代のせいか、わたしがさきの大学に赴任早々、ほとんど聞いたことのない出版社の人が研究室を訪ねてきて、「先生、社会学の教科書を書きませんか」と誘いを受けた。わたしのような名前も知られていない者をどうして執筆者に選んだのかが不思議だった。ひょっとしたら、潜在能力を認めてくれたのだろうかと都合よく考えたりしたが、もちろんそんなことではないことはすぐわかった。
出版社の人は、わたしがこの大学で、昼間の2つの学部と夜間の1つの学部で教養の社会学を教え、受講生が800人ほどいることだけはしっかりつかんでいた。著者は誰でもよい、販売数が確保できるから書かせてあげようというのである。「入門書を書くほどまだ勉強がすすんでいませんし」とことわると、「でも、先生も、専門書をまとめるでしょう。教科書としてつかっていただくということであれば、かならずうちでださせていただきますから」と丁寧な誘いさえ受けた。
大学教師は、研究業績稼ぎのために本を出版しなければならない。しかし、販路はない。それで、売れもしない本を教科書として学生に買わせていたのである。教科書というのは、その分野の標準的な知識の体系をまとめたものだが、特定の専門的研究書を、教科書という名で単位と引き換えに、学生に押しつけ販売することがおこなわれていたのである。
むろん、こういう時代でも教科書の名にふさわしい本もあったが、単著はすくなかった。複数の著者になる編著が多かった。それも2、3人というのではなく、章ごとにことなった著者が書いているものがほとんどだった。異なった著者のせいで、文体も論のはこびかたもちがっており、また前の章との連続性もわかりにくいものだった。しかも、初学者には難解なものが多く、頁数も少ない。教科書をその学問分野の辞書がわりにできる状態からはほど遠かった。
そんなときに、在外研究でアメリカの大学にいった。500頁以上もある大判のボリュウームのある教科書が使用されているのが印象的だった。英語を日本語に直すと、約1.5倍の分量になるから、日本語の教科書にすれば、700頁以上にもなるものである。学生が芝生でこの大きな教科書を読んでいるのは、アメリカの大学によくみられるキャンパス風景である。しかも、日本の大学の教科書とちがって、単著が多く、複数著者といっても2人、多くても3人である。同じ著者が書いているのだから、章と章の連関もわかりやすい。盛りだくさんだから、大概のことは教科書に記載されている。しかし、ボリュウームがあるだけに学生が全部読むのは大変である。実際、学生はこの大判の教科書全部を読んでいる訳ではない。速読したり、必要なところだけを読んだり、あるいは索引を利用して関連の個所だけを読んでいる。しかし、教科書が充実しているから、辞書代わりにもできる。これだけをきっちり勉強すれば、その学問の標準知識は習得できるのである。
もちろんボリュウームがあるだけに値段は高い。現在では60ドル前後といったところだろう。高いものでは100ドルをこえるものもある。しかし、教科書によっては、ペーパーバックもあるし、大学の本屋にいけば、新本と並んで古本も売っている。そして新本はいうまでもなく、古本も試験が終われば売ることができる。したがって、値段の半分ぐらいが学生の実質負担となる。
アメリカから帰ってきて、あらためて日本の大学の教科書の駄目さかげんをおもい、日本で翻訳が出されたアメリカの社会学の教科書を使用したこともある。たしかに、社会学の概念や分析法を知るにはよいのだが、データや事例はアメリカ社会である。日本の学生には、リアリティが乏しい。やはり、日本社会を準拠とした教科書が必要なのである。
いまでは、日本の大学教科書事情もわたしの大学生時代や新米大学教師時代からくらべると、大幅に改善された。学生からの授業評価もあるせいで、冒頭に紹介したようなスキャンダルじみた話はもうほとんど聞かれなくなった。大学の教科書にも練習問題がついていたり、コラムがついていたり、最近は、多色刷のものさえあらわれている。初学者にやさしい教科書にはなった。しかし、章ごとに異なった著者が執筆しているという事情は、かわらない。単著はあっても薄い本が多いこともかわらない。
単著の厚手の教科書が少ないのは、ひとつの学問でもそれぞれの下位分野がこれだけ専門化すると、1人の著者の手におえなくなるという事情もあるが、もうひとつは、すぐれた教科書を書いても、専門書とみられなく、研究業績とみられないため執筆の誘因とならないこともあった。日本の大学が教師本位であったことにふれたが、それは同時に教育者本位ではなく、研究者本位主義でもあった。そんなことがボリュウームのあるすぐれた教科書を執筆する意欲を殺いだおおきな原因である。
しかし、近年は、大学教師の採用や昇任人事において、研究業績だけでなく、教育業績も参照するようになってきた。すぐれた教科書執筆の誘因構造ができつつある。最近の授業は、パワーポイントやビデオを併用しながらおこなっている教師も多い。だから、こうした視聴覚教材とも連動した、CDやDVDつきの新しい教科書があらわれてもよい時代となった。日本大学の教科書は長い停滞の時代を経て、大きな革新の時代を迎えつつある。学生本位の教科書市場がみえてきたのである。
(京都大学大学院教育学研究科教授)
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