歩く・見る・聞く――知のネットワーク36

旧中山道 巣鴨から板橋宿

新井俊定



 山手線巣鴨駅を下り、旧中山道の入口がいわゆる地蔵通りで、若者の町、原宿のをむこうにはって“おばあちゃんの原宿”ともいわれている。
 そこに「とげぬき地蔵尊」がある。正式には高岩寺といい、曹洞宗に属し、慶長元年(1596)江戸の湯島に開かれ、明治24年に現在地に移転した。本尊は小石川田付氏の寄付した小さな印像で、延命地蔵菩薩。享保13年(1728)に書かれた縁起によると、田付氏が妻の病気平癒のため、日ごろ信仰していた地蔵尊に祈願した。ある夜の夢に黒衣に袈裟を着けた僧があらわれ「私の像を一寸三分に彫刻して川に浮かべよ」といわれた。田付氏は「急にはできない」と答えると、「では印像を与えよう」といわれ夢から覚めた。枕もとを見ると地蔵尊の印像があった。印像を印肉につけて一万体の御影つくり一心に祈願し両国橋から河水に浮かべたところ、やがて妻の病気は快復に向かったという。後日この話を聞いた人が、その地蔵尊の御影を頂き大切に持っていた。ある時誤って針を飲み込み、苦しんでいた女性にその御影の1枚を飲ませたところ女性は腹中のものを吐き、飲みこんだ針が地蔵尊の御影を貫いてでてきたという。「とげぬき地蔵尊」といわれるゆえんである。
 明治の移転以後、電柱の張り紙広告が当たるなどして次第に参詣者が増え、今は、境内に線香の煙が絶えない。巣鴨から都電荒川線庚申塚駅まで、せんべいや大福を売る店、洋品店、食堂などが並んでいる。特に4の日の縁日には賑わいをみせている。境内にある“洗い観音”の前にはご利益を願う善男善女で行列ができるほどである。多くの人が、地蔵尊とかん違いしているようで、肝心の地蔵尊は本堂の奥に奉られているのである。境内に設置されている「とげぬき生活館」では弁護士や社会福祉関係の専門家が、生活上のあらゆる問題の相談に無料で応じていることも賑う理由の1つであろう。
 地蔵尊といえば地蔵通り入口に、真性寺がある。門に「弘法大師御府内八十八ヶ所第三十三番・江戸六地蔵第三番」とあり、境内には高さ2.68メートルの大きな地蔵尊が蓮台に趺座している。江戸六地蔵の1つである。六地蔵は、平安時代の承和年間に、小野篁が京都の入口六カ所に地蔵尊を造立し、天下安全宝祚長遠洛陽繁栄を祈り、諸人往来の街道に安置して人々に縁を結ばせた故事にならい、江戸深川に住む地蔵坊正元の発願により、庶民から浄財を募って、宝永5年(1708)〜享保5年(1720)の間に、品川寺(品川区、東海道)、大宗寺(新宿区、甲州街道)、真性寺(豊島区、中山道)、東禅寺(台東区、奥州街道)、霊巌寺(江東区、水戸街道)、永代寺(江東区、千葉街道〈この寺は現存しない〉)の六カ所に造立された。
 真性寺の地蔵尊は1714年に造立され、火災、戦災を免れ、部分的な修正は加えられたが当時の姿を残している。六地蔵参りは「東都歳時記」によれば、品川寺から始まり、上記の順で巡拝したといわれている。
 旧中山道を下って行くと板橋宿に至る。板橋の名は平安末期には使われていて、板の太鼓橋だったのでその名が生れたともいわれる。江戸から2里25町33間(約11キロ)、上宿・中宿・平尾宿からなり、宿場町として栄えた面影が残る。
 JR埼京線の手前を左に入ると、新撰組隊長近藤勇の墓がある。千葉流山で捕らえられた近藤は、この板橋に移送され、宿の外れの平尾で処刑され、首は京都まで運ばれ、少し離れた地に胴体だけが葬られた。そこに近藤の小さな墓石が残っている。近藤と土方歳三の名を刻んだ石塔は隊士永倉新八が2人の追悼のために明治8年に建立したものである。
 この他、巣鴨近辺には、桜のソメイヨシノ発祥の地である“染井”、また江戸三大閻魔の1つに数えられる善養寺がある。ちなみに大正大学もこの道筋にある。
 ぶらり歩きながら、日本人の信仰心について考える機会としては如何だろうか。
(大正大学出版会)

高岩寺(とげぬき地蔵尊)
    東京都豊島区巣鴨3-35-2
    縁日(毎月4日・14日・24日)
    JR山手線巣鴨駅下車

真性寺 東京都豊島区巣鴨3-21-21
    JR山手線巣鴨駅下車

近藤勇の墓
    JR埼京線板橋駅前



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