大学図書館における
サブジェクト・ライブラリアン
呑海 沙織
「どこの図書館にお勤めですか?」
「電気工学系の図書室です。」
「では、ご専門は電気工学ですね?」
「いいえ、違います。大学では心理学を専攻していました。」
「何故ですか?」
「………」
約10年前、オックスフォードのボードリアン図書館前での会話である。図書館の案内役を務めてくださったライブラリアン、ウォリン氏の何気ない質問に、緑豊かな芝生を楽しみながら散策していた私は、思わず立ち止まってしまった。質問の意図が瞬時につかめなかった自分に、そして、その質問の裏に横たわる文化の違いに改めて呆然としたからである。サブジェクトをもつ図書館には、そのサブジェクトを専門とするライブラリアンがいることが自然である文化と、そうでない文化。何気ない言葉であるからなお、その間に横たわる溝は大きい。
サブジェクト・ライブラリアン――英米の図書館に大きな影響を受けながら変化し続けている日本の図書館に、未だ根付くことのない仕組みのひとつである。サブジェクト・ライブラリアンとは、特定のサブジェクト、すなわち主題分野に通じたライブラリアンである。主として特定のサブジェクトにおける選書や蔵書構築、レファレンス・サービス等を行い、そのサブジェクトを背景にもつ利用者に対してサービスを行う。
米国では、ライブラリアンの要件として図書館情報学修士号が求められるが、サブジェクト・ライブラリアンに対しては、さらに特定のサブジェクトに関連する修士号が求められることが多い。いわゆるダブル・マスターと呼ばれるこの要件は、米国の大学図書館サービスを高い水準で保っている。
日本においては、長年にわたってサブジェクト・ライブラリアンの必要性が論じられてきたにもかかわらず、システムとして大学図書館にサブジェクト・ライブラリアンが根付いているとはいい難いのが現状である。国立大学においてはその必要性を認めながらも、サブジェクト・ライブラリアンを実現しようとした形跡すらみられないともいわれている。
しかし今、日本の大学図書館においても、サブジェクト・ライブラリアンについて改めて考える時期にきている。母体である大学そのものが地殻変動を起こしているからである。『日本の高等教育システム――変革と創造』で天野は、「日本の大学や高等教育の構造変動の根底にあるのは、三つのメガトレンド、マス化、市場化、グローバル化」であるとしている。これに、図書館に大きな影響を与えつつある情報化、デジタル化を加え、この5つのメガトレンドが大学図書館に与える影響について考えてみたい。
第一のマス化であるが、これは単純に学生の数が増えるという問題にとどまらない。例えば、平成16年度の学校基本調査によると、学生数は前年度より約5000人多い289万9000人であったが、その内訳をみると、学部学生が3000人減少しているのに対し、大学院生が1万3000人増加している。このように大学院生数の割合が増加しているだけでなく、社会人大学生やパートタイム学生の増加や、e-learningの発達など学生が多様化し、そのニーズも高度で広範囲なものになりつつある。また、マス型、ユニバーサル型の高等教育への移行は、教育システムそのものを変化させている。
第二の市場化であるが、競争的予算や重点的予算の増加により、日本においても研究者がますます競争を迫られる社会になってきている。この点において、この変化とともに、研究者についても情報を効率よく入手するための支援の必要性が高まってきている。論文や情報は増える一方であるが、これに比例して研究者の時間が増えるわけではないからだ。論文を読んだり、論文を書いたりする時間はこれまでどおり、いやそれ以上必要になるだろうし、そうなると、情報や論文を入手するための時間を短縮せざるを得なくなり、情報入手を情報のエキスパートにゆだねざるを得ないという構図が成り立つからである。大学図書館において、これまで充分に実現できていなかった研究支援について、今一度見直す必要が生じている。
第三のグローバル化においては、例えば留学生支援など、国際社会に対応したサービスが必要となってきている。また、多様化する学生のニーズに応えるために、資料・情報の提供形態や方法も多様化させる必要がある。例えば、e-learningなどでキャンパスに足を運ぶ必要のない学生のために、新たな情報の提供方法を考える必要が生じている。
第四の情報化についてであるが、情報化社会において、情報は爆発的に増加し、その変化も加速している。溢れる情報の海から、的確な情報をすばやく入手するための情報リテラシーの重要性、ひいては情報リテラシー教育を行う必要性が高くなってきている。情報リテラシー教育を担う大学図書館としては、変化に応じたリテラシー教育を提供していくと共に、自らそのスキルを磨くことがますます重要になってきている。
第五のデジタル化であるが、これにより、いわゆる「所蔵からアクセスへ」の変化が生まれている。電子ジャーナルがインターネット上で提供されるようになると、利用者は出版社のサーバに直接アクセスして論文を利用するようになる。大学図書館の役割は、ジャーナルを所蔵するのではなく、ジャーナルへのアクセスを利用者に確保することへとシフトしつつあるのである。また、情報が、情報仲介者の手を経ず、直接エンドユーザにわたるという、情報流通経路の中抜き現象も起きている。とはいえ、情報や資料が増えるにつれ、また、その手段やルートが多様化するにつれ、エンドユーザ自らが、必要な情報や資料を探し当てるには限度があり、ここにおいても、情報のエキスパートが求められるようになってきているといえよう。
これらのメガトレンドから浮かび上がるキーワードは、ニーズの多様化、情報提供手段の変化、そして、情報のエキスパート、すなわち、情報のプロフェッショナルの必要性である。そして、この情報プロフェッショナルを学術情報という範囲で考える上で、もっとも重要なファクターが「サブジェクト」である。研究分野は細分化されており、また、各研究分野において、メインとなるツールやメディアが異なるからである。また各研究分野において、その情報のライフサイクルも異なる。一般に、いわゆるSTM(Science, Technology and Medicine)の分野においては情報のライフサイクルが短く、電子メディアが中心となる一方で、人文・社会学分野においては、情報のライフサイクルが長く、紙メディアの占める割合は大きいという傾向がある。特に、研究支援を考えた場合、サブジェクトに関する知識は不可欠だといえる。
日本の大学図書館において、サブジェクト・ライブラリアンを根付かせるためには、養成・研修、人事制度、ミッション・ステートメントの構築、評価、報酬などさまざまな課題が存在する。けれども、学術情報プロフェッショナルを語る上で、サブジェクト・ライブラリアンの確立は避けて通れない。さもなくば、大きな地殻変動の狭間で、大学図書館は呆然と立ち尽くすことになるに違いない。
(京都大学人間・環境学研究科総合人間学部図書館参考調査掛)
参考文献
(1)天野郁夫『日本の高等教育システム――変革と創造』東京大学出版会、2003。
(2)呑海沙織「大学図書館におけるサブジェクト・ライブラリアンの可能性」情報の科学と技術、五四巻四号、2004.4。
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