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慶州、京都、そして杭州へ
― 新しいステップへと移行する「日・韓・中大学出版部協会合同セミナー」 ―
後藤 健介
「韓国・慶州は、かつて新羅の都として栄え、日本でいえば奈良や京都のような歴史ある古都として……」云々とは、世のガイドブックで繰り返される常套句だが、その慶州の観光名所を、昨年(2005年)10月、観光客にしては妙に緊張した面持ちで、観光というか、移動している一群の日本人がいた。いうまでもなくこの一群とは、三カ国セミナーに参加するために訪韓した[日本]大学出版部協会の代表14人である。メンバーの胸中には、その日の午後から始まる予定の日・韓・中の大学出版部協会の三カ国セミナーが、どんな展開をみせるか、さっぱり予見できないという影がさしていたのだが、古代の遺跡の上、秋の空は高く、野の花は咲き、なにかいいことがありそうな気もする道中だった。
慶州セミナーでの課題
しかし実際のところ、「いいことありそう」などと言ってはいられない状況であった。
それまで7回を積み上げてきた三カ国セミナーが、2003年のSARS問題のために、中国側協会と継続した連絡がとれなくなっていた。事態の打開を目指して2004年に日韓の代表が北京に赴いて開催した「調整会議」では、中国側の対抗提案(毎年開催の断念と「団長会議」形式への変更)に日韓とも慌てた。さて、では2005年は日本と韓国でしっぽりやろうと話がまとまったその数カ月後に、一転中国側協会が参加を表明、中国側への配慮から慶州セミナーは「第9回」三カ国セミナーと称され(この文章でも第8回が抜けているのを見てとっていただけるだろう)発表主題も変更し開催されることになった。それでも正常に復したとはいえなかった。ここ慶州で締結し三カ国関係を磐石にしようと、韓国側協会が調整に尽力した「三カ国協力調印書」の文案中、「セミナーの毎年開催」を定めた原案に対して、中国が「隔年開催」を主張、セミナー当日になっても同意がされていなかったのである。
セミナーの日程を通じて、結果から言うと、調印書は締結されなかったし、中国は2006年に日本が開催するセミナーに、「理解」を示しながらも参加を確約はしなかった。
これらの経緯において、中国側に不誠実があったとは、私は思わない。国土が広大で地方格差も大きく、加盟校数も多い中国側協会は、協会内で国際交流に対するコンセンサスを醸成すること自体が難しいであろうことは容易に想像がつく。我々との非公式な席で、中国側協会の代表の1人はSARS問題に対する日本側の対応に率直に遺憾を述べながらも、それがむしろ中国側協会内での意見調整に執行部がかかえている問題の1つだという文脈であったことを私は知った。
我々(この場合「我々」に韓国側協会を含めていいだろうが)は東アジアにおける大学出版部の国際交流とその主要な場であるこのセミナーがどれだけ意義のあることかを説得し、今後の展望を示すことで中国の継続的参加を説得する必要に迫られた。この点、中国側協会は意図的ではないながらも、大学出版部が国際交流をする意味と、その内容がいかなるものであるべきかについて、この機会に問いを投げかけていたと考えるべきなのである。その意味で言えば、かねてから「実利性の不足」をこのセミナーに問題提起していた韓国側協会も、その「調印書」提案でもって、中国に対するのと同時に日本にも、強いメッセージを発していたのだ(「調印書」案にはセミナーの毎年開催のほかに「資料交換」「ブックフェアの開催」「人員交流」などの条項がもりこまれている)。
日本側協会は、来たる日本開催の第10回セミナーを単なる儀式ではなく、これらの問いになにかの回答への道筋を示すものとして企画し、そのことをもって関係の修復を図らなくてはいけないという宿題を出されて慶州から帰ってきたのだ。
「セミナー正常化」から、その次のステップへ
目下、まだ三カ国協力調印書が「セミナーの毎年開催」で締結されるかは、(中国側から検討の意向は示されたが)確定はしていない。もちろんセミナーの形態は柔軟に検討されてよいが、実務者による毎年の交流は、今後実を挙げるべき国際交流のためには維持すべき基準、つまり正常状態であろうと我々は考えている。さらには、セミナーが「正常化」した後、ではこのセミナーを今後どのような実際的な効果をあげるものとして位置づけるかという問題――セミナー開始以来、各国がいろんなアプローチから展開を試みてきた最大の課題――に戻ってゆくことになる。「セミナー正常化以後」を真に新しいステップへの跳躍としうるかどうかが、今後の正念場になるだろう。
私見ではあるが、三カ国セミナーで明らかにされ、議論される韓・中の経験は、日本の大学出版部と協会にとって、学ぶべきものが極めて多い。例えば、韓国のある大学出版部はアメリカに事務所をおき、刊行する英文図書などをインターネット書店で世界的に流通させる試みを始めている(いろんな関係で英文図書を作ったはいいが、流通に苦心している日本の大学出版部は多いはずだ)。中国の大学出版部は、日韓と大学や出版業界の構造に大きな違いはありながらも、海外事務所の設立・米国出版社との提携(教科書の独占的翻訳出版)、また協会合同で地方の大学対象に教科書採用の見本市を開催するなど、大学出版部(協会)がとりうる最も積極的な戦略の数々を既に実行している。
そうした大学出版部の多彩な事業モデルを目の当たりにする面白さのほかに、将来的な英文図書の共同市場の確立、版権売却(まだ韓国・中国において、日本語の学術書・教科書の相対的な価値の高さはある)の活発化、そして「国際交流を試みている」という事実が所属大学に対してもっている価値など、セミナーが導く国際交流が我々にもたらす総合的なメリットは大きく、さらに大きくなりうるのではないかというのが私の思いである。
慶州、京都、そして杭州へ
さて、上述のような酷な慶州セミナーが、一方で奇妙にさわやかな印象をもったのは、韓国側の情の尽くされた歓待と、中国側の率直なコミュニケーション努力にくわえて、「それが秋の慶州だったから」だといったら、「なにをそんな非本質的なことを言うか」とお叱りをうけるだろうか。
国家の外交を引き合いに出すのは気が引けるが、それでも、その外交交渉の場の多くは、一見宴会であったり、旅行であったりするようなフリをしていることが多い。それは、交渉の当事者への心理的配慮(または作戦)であるのと同時に、国家的利害といえども、それを他者に表現する方法が、実はきわめて限定されていて、その交渉の場の「設定の仕方」自体が数少ない貴重な表現媒体だ、という事実がある。
韓国側協会が、慶州という「媒体」で表現したこととは、おそらくこうだ。
まず、韓国にとって日本と中国との相互的な学術書籍市場は、十分賭けていい将来的な価値があり、それは日中にとっても同様であるはずだ、という読みがある。その三カ国の定期的交流が危機収拾の局面にあるという前提のもと、非常によく考えられた設営をすべきだと考えたはずだ。舞台として、慶州や京都のような、その国の主要な古都は、施設も整い、国家外交の場合でも格の高い会場設定だとみなされる。そのような地で同じ宿舎に参加国を寝泊まりさせ、「同じ釜の飯を食う」ようにする。セミナー2日目の議事も短縮され、「史跡踏査」に当てられた。これは調印書が不調に終わった以上、三カ国の厳しい言葉による意見応酬の場は避け、同じ風光を鑑賞しながら、この寺はいい、あの山はいいと言い合う時間を持つことを優先し、交流当事者相互に蓄積した遺憾を緩和することが、今後の展開に資すると判断したのだ(このエクスカーションへの評価は、記録集である『トライアングル』において、山口雅己理事長も指摘している)。2006年を担当する日本側協会としては、彼ら韓国がパスしてくれた球を素直につなぐのがいいだろう。つまり、慶州でペンディングにされた議論の続きをおこないながら、くわえて、友好局面を促進するような舞台の設営をおこなうことだ。
今年の京都では、主題に「10年の回顧と展望」と「大学出版部の国際交流」の2つを設定した。「10年の回顧と展望」では、この10年に各国の大学出版部(とその協会)が経験してきた、大学と出版業界の変化を総ざらいしながら、このセミナーに取り組んできた各々の立場からの思いが明らかになるはずである。また、このセミナーに将来どのような機能を期待するか、各国の率直な考えが聞けるはずだ。第二主題「大学出版部の国際交流」では、第一主題をうけて、大学出版または学術出版における国際交流の本質的な重要性が確認されるだろう。
そして、京都大学学術出版会と産業能率大学出版部のご尽力により、魅力ある京都のロケーションを最大に引き出す演出がされる。三カ国の代表団はすべて同じ宿舎に泊まり、晩餐会としては、貴船の清流に張り出した川床で本格的な日本料理が供されることが予定されている。暑い市内を抜けて、冷涼な野外の風にあたりながら、三カ国の大学出版人が親密な時間を共有することが企図されている。
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本稿の執筆現在、中国側協会は非公式にではあるが、2007年に三カ国セミナーを浙江省杭州で主催する意向を表明している。杭州は春秋時代の越国以来の古都であり、現在もマルコ・ポーロも感嘆した風光を残すことで知られる都市であるが、韓国の慶州、日本の京都と、「三カ国セミナー正常化」にむけた三カ国の古都のセミナーのリレーを、来年もしっかりと中国が受け継ぐ覚悟でいてくれるのだろうかと、そう想像すると心強い。
(国際部会副部会長・東京大学出版会)
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