文化の活性化へ向けて
― 欧米の大学出版会の活動状況について ―

八幡 努



 昨年、ニューヨークタイムズのベストセラーリストで、一風変わったタイトルの本が一位になった。On Bullshitという題名の本で、著者は、Harry G. Frankfurtというプリンストン大学の道徳哲学の名誉教授である。60ページ程度の小冊子的な体裁の本書において、著者は、“bullshit”、すなわち、「うそ」、「ごまかし」、「たわごと」、「でたらめ」などの発話現象について語源的、哲学的、社会的な考察を行っている。本書は、アメリカでのベストセラーになったということもあり、アメリカとイギリスを含む世界14ヵ国で翻訳出版が決まった。日本でも、『ウンコな議論』という邦題で筑摩書房から出版されており、好評を博しているようである。注目したいのは、このOn Bullshitの版元が、ランダムハウスやペンギンといった大手の商業出版社ではなく、学術系のプリンストン大学出版局であったことだ。主に学術書を出版する大学出版局から出版された本が、アメリカでベストセラーになったのである。
 大学出版局の本がベストセラーになるなどということは、アメリカでも非常に稀である。On Bullshitの初版部数は5000部。学術書の初刷り部数にしては比較的多いものの、版元もベストセラーを狙って出版したわけではないだろう。では、大学出版局の本がこのように多くの読者を獲得することができたのは、なぜか。この点を、欧米の大学出版会の出版活動の特質と併せて考えてみたい。
 欧米の大学出版会は、通常の書籍の出版と電子出版の2つの出版活動を行っている。電子出版については、読者が各大学出版局のホームページにアクセスし、書籍の電子ファイルを購入するという方法が多いようだ。あるいは、書籍の一部分をデータ化してホームページにアップし、ホームページにアクセスした人が誰でも無料で読めるというサービスを提供している出版局もある。しかし、電子出版はあくまで副次的な出版の形態であり、インターネットが普及した現在でも、書籍の形態で本を出版するのが主流である。したがってここでは、流通している書籍の内容と形式を検討する。

 まず、出版される本の内容面について。大学出版会である以上、専門書の出版は、欠かすことのできない重要な活動である。各専門分野における最新の研究業績や知見などが本として出版される。著者は、主に大学の教授や研究者である。こうした専門書の場合、大学や企業の研究者、あるいは、専門課程に進んだ学生が読者として想定されている。実際、こうした専門書に目を通してみると、非常に高度な研究内容が書かれている。したがって、専門家や研究者にとっては有益な著作になるだろうが、その反面、一般の読者にはなかなか理解し難いため、高価格、小部数の出版になる。だが、こうした専門書の出版が継続的に行われているところを見ると、専門家や研究者に一定の需要があるようだ。
 一方、欧米の大学出版会は、一般読者向けの書籍の出版も行っている。これは必ずしも全ての欧米の大学出版会に該当するわけではないのだが、例えば、プリンストン大学出版局、ハーヴァード大学出版局、マサチューセッツ工科大学出版局、オックスフォード大学出版局、ケンブリッジ大学出版局、シカゴ大学出版局などの主要な大学出版局は、専門書のほかに、一般書(books of general interests)を多数出版する。この一般書とはあいまいな言葉であるが、要は、限られた専門家や研究者だけを対象とした書籍ではなく、知的関心のある読者や非専門家を想定した書籍と考えてよいだろう。もちろん、一般書とは言っても学術的な主題を扱った本であることに変わりはないが、大別すると以下の2つの手法により、素人の読者にも近づきやすいよう工夫が凝らされている。
 まず、高度な研究内容を平易に解説するという方法。こうした解説書を執筆する著者は、専門用語を極力使わずに最新の研究成果や難解な学問の内容を説明する。たとえば、卓抜な比喩表現を駆使して難解な量子力学の世界を明快に描写したThe Quantum World: The Quantum Physics for Everyone by Kenneth W. Ford(『不思議な量子』、日本評論社、2004年)、あるいは、男女の性決定や遺伝病へのX染色体の関与を語ったThe X in Sex by David Bainbridge(『染色体X』、青土社、2004年)は、ハーヴァード大学出版局から出版された。どちらも、非常に専門的な内容が新書程度の平易さで解説されている。
 次に、斬新な発想を用いて専門的な思考を身近にするという手法。冒頭で触れたOn Bullshitはこの種の本といってよいだろう。また、同じプリンストン大学出版局から出版されたNine Crazy Ideas in Science by Robert Ehrlich(『トンデモ科学の見破りかた』、草思社、2004年)は、「紫外線は体にいいことのほうが多い」や「光より早い物質「タキオン」は存在する」などの奇説や新説を科学的に検討し、それらの真贋度を5段階で判定するという企画であった。本書は、身近な話題と着眼点の面白さによって最新の科学的な知見を無理なく導入することに成功している。読者の関心を引く題名をつけている点も、多くの読者層にアピールするうえでは見逃せない要素である。
 以上のような一般書の出版は、欧米の大学出版会に特徴的な活動と言えるだろう。では、本作りや出版形式の面ではどうだろうか。まず、書籍の背表紙には、他の研究者や著者の推薦文が幾つか記載され、カバー袖には、本の内容が比較的詳しく要約されている。さらに、多くの場合、ハードカバー版の出版から1年以内にペーパーバック版が出版される。これらは、欧米の大学出版会に独特の書籍製作方法、および、出版形式であり、より多くの読者を獲得しようとする意識を反映している。
 また、出版物の翻訳権を各国の出版社にライセンスするのも重要な活動のひとつである。各大学出版局には著作権部があり、翻訳権を世界各国の出版社に売るのである。その方法であるが、まず、大学出版局が新刊カタログや企画書を準備し、国際書籍市やメールなどを通じてサブエージェントに紹介する。そして、サブエージェントが、自国の出版社に適切だと判断した企画を提案する。提案を受けた現地の出版社はそれぞれの関心に応じて企画を検討し、翻訳出版を正式に決定した場合、大学出版局は、印税の前払い金という形で契約時に収入を得る。あるいは逆に、各国の現地の出版社側からの申請を受けて翻訳権をライセンスする場合もある。いずれにしても、1冊の本の翻訳権を複数の国に販売することが可能になる点で、著作権部の仕事は大学出版局において重要な位置を占めている。

 さて、以上述べたような活動を通して見えてくる欧米の大学出版会の特質とはどのようなものか。冒頭で提起した問題に対する1つの解答にもなり得ると思うのだが、それは、出版活動によって知の普遍性を追及するという態度である。専門性の高い書籍の出版は必要であり、こうした書籍に新たな研究成果が発表されることにより、更なる学問の発展や深化が可能になる。しかし、知の体系が普遍的であることを証明するためには、限られた学者や研究者だけがその体系を理解するだけでは充分ではない。知は、一般読者や専門外の人間にも理解できるよう提示される必要があるのではないだろうか。欧米の大学出版会は、この点を実現するため非常に自覚的な工夫を凝らしている。一般書の出版を積極的に行うことにより、広く読者を得ようとする点についてはすでに述べた。最新の研究成果を素人が読んでも分かるように書かれた書籍を出版するからこそ、各国にも翻訳権を売ることができる。学術書のベストセラーはこうした土壌から生まれてくるのだ。
 翻って、日本の大学出版会はどうだろうか。
 私は、日本の大学出版会の全体像を把握しているわけではないので、ここでは、あくまで出版されている書籍について述べるにとどめる。
 専門書の出版という観点からみると、欧米の大学出版会と日本の大学出版会にそれほどの差がある訳ではないだろう。日本の各大学出版局も、学者の研究成果を書籍として出版する。こうした出版活動が、ひいては学問全体の発展に寄与することになるであろうことは、想像に難くない。だが、一般の読者が手にとりやすい書籍の出版となると、どうだろうか。欧米の大学出版会がこうした本の出版にも前向きに取り組んでいる一方、日本の大学出版会は、翻訳書だけを眺めてみても、それほど積極的に一般書の出版に取り組んでいるようには思えない。出版される本の価格も非常に高価であることが多い。助成金で書籍を購入できる研究者以外の人にはとても購入できない値段がついていることもしばしばである。大学出版会は、一般の読者が読んで理解できる書籍を、低価格で提供することは不可能なのだろうか。日本の大学出版会が学問の専門化や細分化に貢献しているのは疑いない。しかし、開かれた知、あるいは、身近な学問を提供するという点では、その活動を批判的に再検討する余地はあるだろう。
 文化は、専門家だけではなく素人の素朴な発想や疑問によって活性化されることもあるだろう。大学出版会が、活性化された日本文化という大樹を生育する土壌となることを望む。
(イングリッシュ エージェンシー ジャパン)



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