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新しい協力関係の構築に向けて
― 第10回日・韓・中大学出版部協会合同セミナーを終えて ―
小野 利家
第10回日本・韓国・中国大学出版部協会合同セミナーは、2006年8月24日〜26日に京都で開催され、無事終了した。10年目という記念すべき節目のセミナーであっただけに、またそれを主催する責任の重さもかさなって、ともかく大過なく終えることことができたことを素直に喜びたい。理事長・事務局長・総務担当理事をはじめとする大学出版部協会幹部の皆さん、夏季研修会との合同推進のためお骨折りいただいた当番校(産業能率大学出版部)の皆さん、急遽編成された国際部会のスタッフ班の皆さん、そして何より主題発表者、こうした方々の後押しをいただいて、とにもかくにも「大波」を越えたというのが私の偽らざる実感である。
この4月に国際部会をまかされ、新任ほやほやの部会長として、また開催地校という逃れられない宿命を負った立場から、終始バタバタと準備を進めてきたいささか個人的な側面のことどもをも交えて、以下にこの「第10回」合同セミナーを総括してみたい。
第10回三カ国合同セミナーの課題
第10回三カ国合同セミナーには、以下のような課題が課されていたと思う。
(1)かねて懸案であった「三カ国協力調印書」の調印式を実現し、セミナーの開催のみならず、より恒常的な交流と実務的な協働・協力関係へステップアップさせる礎を築くこと。
(2)10年間の交流を回顧・総括し、今後の新たな展望を拓くこと。
(3)主題に即した議論を深め、相互学習を推進して大学出版部の共通課題を発見すること。
(4)「交流から交易へ」の実績づくりのため、著作権販売等の道を拓くこと。
では、実際にはどのような成果を上げられたであろうか。結果的には、幸いにもこの4点に関するかぎり、ほぼ及第点をいただけるのではないかと思っている。
まず(1)の「三カ国協力調印書」の調印式は、セミナーの冒頭に予定されていた。これが実行されなければ、セミナーの意義が薄められることを余儀なくされる重要なセレモニーとして位置づけられていた。事前に日本・韓国間ではほぼ合意が形成されていたが、中国には、前年の韓国・慶州でのセミナーの団長会議でも、協会加盟の出版社の意見が集約しきれていないので調印に至らない、としていたという経緯があった。今年こそは、という意気込みで再三にわたって意向を打診した結果、7月下旬になって原案通りの条項が、中国大学出版社協会から中国語で届けられたのである。足かけ3年、ようやく大願成就し、参加された皆さんがよくご存じの通り、セミナーの冒頭厳粛に、無事「三カ国協力書」調印式を行うことができた。
この意義はきわめて大きい。調印書によれば、第一条で各種技術、情報、資料、定期刊行物の相互交換を約し、第二条で各国持ち回り式の合同セミナーを毎年開催することとしている。この条項は、中国が検討事項としてきたことだけに、これが確約されたことは大きな前進であった。第三条では図書展示会を実施すること、そして共同出版まで謳っている。第四条は親睦増進にかかわることで、協力し合うことを明示した。これらは、いずれも強制的ではなく、修正、破棄についても規定されていることは言うまでもない。いずれにせよ、この調印書が交わされたことで、これまで合同セミナーというイヴェントを「開催する」ことだけに重点がおかれ、われわれ自身そう認識していたきらいのあったものが、ここで明確に、より恒常的で、かつ実務的な協働・協力関係を重視することになったのである。転換した、と言ったら言い過ぎであろうが、これまでになかった場所にまで踏み入ったことは確かである。
第2点は、三カ国合同セミナーの回顧と展望をしっかりやりきったことである。セミナーに対する取り組み方やこれまでの主題に合わせて何を討議し、どういう成果があったかを回顧し、さらに今後の展望を披瀝し合った。少なくとも、日本と韓国は「10年間の回顧と展望」というテーマに即した発表をし、将来展望も具体的に示された。とりわけ韓国は、日本・韓国の交流15年にまでさかのぼり、かつ個々のセミナーについて発表主題から発表者名までも組み込んだ詳細を極めたものであった。時間制限のあるなか、とても消化しきれるはずもなかったが、その熱意のほどには正直驚かされた。中国は、自国の大学出版社の10年間を回顧・展望することとなったが、これはこの10年のあいだに、SARS(サーズ)問題による日本・韓国だけの変則開催(第7回札幌セミナー)があり、実際に参加できなかった経緯があったためのやむをえない苦渋の選択であったのかも知れない。それにしても、中国大学出版社の出版事業実績が金額ベースで中国全体の4分の1を占めているという事実は重い。これから、このヴォリュームの大きさが交流にどのような影響を及ぼすかは予測できないが、大いに気になるところではある。
2つの主題発表に関する質疑応答は活発に行われた。少なくとも、私が発表者として参加した前年の第9回韓国・慶州でのセミナーに比べれば、時間も充分にとってあったし内容もまずまずといったところであろう。
意外な成果をあげた図書展示コーナー
当初の自信なげな構えのまま実施して、思惑以上の成果を上げたのが4番目の著作権販売のための図書展示コーナーであった。韓国・中国に呼びかけて出品依頼をしたものの、1カ月前までの状況では、わずかに韓国・ソウル大学の書籍が京都に届いただけであった。前回の札幌では、規模はかなり充実していたものの実際に翻訳出版交渉のために照会があった事例は数件にとどまっていた。そうしたこともあって、若干規模を縮小しようということで準備を進めざるをえなかった。とりあえずは足下からということで、日本としては各大学出版部2点の出品を要請した。事前にエントリーが寄せられたのが13大学出版部で、書籍数は24点であった。それぞれが当日持ち込みとしたので、申し込みなしに出品したところもあったかもしれないが、主催国としてはいかにも寂しい対応と言わざるをえない(実際に後日、韓国からそのような指摘も受けた)。加盟30大学出版部のうち、出品校がその半数にも満たなかったことはいかにも残念であった。
さて、韓国・中国の出品数と合わせても総点数は約74点と、小振りながらコーナーはオープンした。昼食時と午後の休憩時の正味1時間足らずの展示であったが、人だかりは途絶えなかった。その結果、翻訳検討用として持ち帰られた書籍数が合計で20点、重複した請求もあったのでそれを合算すると26点に達した。まずは成功と見てよい数値であろう。その要因には、非常にシンプルなアプライ・シートを準備したことと展示場所のロケーションがよかったこと、があげられると思う。ほんとうの結果は、契約にまで持ち込めるかどうか今後に持ち越されるが、とにもかくにも、三カ国協力調印という記念すべき日に、このような新しい芽が顔を出したことを素直に喜びたい。
こうして、第10回日本・韓国・中国大学出版部協会合同セミナーは、ほぼ所期の課題をクリアすることができた。まずは、なんとか10年という節目を画することができたのではないかと思う。――以上を、表向きの小稿の結びとして、蛇足ながら国際部会の準備段階の裏話などを披露してみたい。
「京都らしさ」を求めて
慶州で、次回開催地が京都と決まったときは、その困難さはさほどに感じなかった。韓国や中国から見れば、日本での合同セミナーが古都・京都という日本随一の観光スポットでの開催は歓迎され、なんら異論なくすんなりと受け入れられたのも当然であろう。
韓国から戻り、改めて夏の京都での国際セミナーの開催ということの重苦しさが私を襲った。この間、大学出版部協会の地方研修地として関西が選ばれることが多く、またかという気持ちがあったことも事実である。しかも、今度は規模として最大の三カ国合同セミナーである。そして、当時(2005年11月)私は協会の副幹事長を拝命していて国際部会担当であり、所属出版部が京都大学学術出版会で他に京都に加盟出版部がないとなれば、事柄が私に集中することは火を見るより明らかであった。しかし、グズグズ言っても始まらない。セミナー会場と打ち上げの懇親会場のメインはここと腹に決めて、その案を11月末の法人化後の臨時社員総会(年末例会)のさいの国際部会で提案した。100人規模の集まりを京都でもつということであれば、会場などの手配は早めにやっておくにこしたことはないからである。
この年末までに、2006年8月24日と25日の夏季研修会と三カ国合同セミナーの会場は京都大学の施設を使うこと、懇親会には夏の京都を考えて河床にしようと決めて具体的な施設探しを始めた。京都大学の施設では、時計台の百周年記念ホール、福井謙一記念館、そして芝蘭会館の三会場が候補に挙がり、河床はロケーションから貴船で探すことにした。
これらを詰めていくと、会場は空き具合や資格問題でアッというまもなく芝蘭会館に絞られ、すぐに仮予約した。貴船のほうは、たまたま知人がそのうちの一軒で働いていたということを教えられ、予算的な制約から中クラスの料亭を推薦してもらってすぐに下見をした。そして、さらにそこでもう一軒を推薦され、結局二軒とも仮予約をした状態で年を越したのである。
「京都らしさ」をどのようにして見せられるか、というのが選択基準であった。会場と宿泊施設を一カ所でこなすということで「京都らしさ」を追求すれば、京都では残念ながら予算的に不可能である。そこで、京都大学という名前と裏京都の名所という組み合わせでこれに対応させた。それでも、協会基準価格に比べれば高い。そのしわ寄せが、結局は宿泊ホテルとそこでの歓迎晩餐会に及んでしまうことになる。
2006年に入って、国際部会は毎月開催された。そこで、ちょっとした衝撃が走った。実務面で部会を支えていた副部会長の中村晃司氏(東海大学)が、学内の異動で出版部を離れることになった。それを追うように、肝心の部会長の釘澤雅春氏(玉川大学)も4月から異動になるという。途方に暮れた。救いは、韓国・中国との渉外を一手に引き受け、着実に三カ国の足並みをそろえることに専心してくれている副部会長・後藤健介氏(東京大学)の存在であった。決断のしどころであるが、私自身はそれまでの経過から部会長を引き受けざるをえず、もう1人の副部会長として徳富亨氏(東京電機大学)に就いてもらった。
4月からは、ひたすらゴールに向けて走るしかなかった。私には、翻訳・通訳団の編成という難題が残されていたが、5月になって一段落した。あとは、とくに記述するほどのことでもないだろう。――いま、改めて思い出すのは貴船のことではない。セミナーの内容でもない。2人の副部会長の姿である。後藤氏は、セミナーの司会という大役を終えたばかりなのに、散会した会館の受付にひとり残って図書展示コーナーのアプライ・シートの整理をし始めていた。彼が貴船に現れたのは1時間後であった。また、徳富氏は、休憩所と商品展示コーナーづくりを担当したが、山内ホールの狭さをカバーするため2つのホールのあいだのスペースを実にうまく活用して、見事な空間を作ってくれた。そのうえ、時間の許す限りカメラのシャッターを押し続けていた。人を得たな、というのが私の今回のイヴェントのまったく個人的な総括である。
(国際部会長、京都大学学術出版会)
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