書評は語る
― 新聞の現場から ―

鵜飼 哲夫



 新聞に原稿を書くときは、できるだけ多くの人から情報を入手し、そうして得られたことを迅速に、わかりやすく、正確に伝えるよう心がけている。記者となってから20年以上もたつと、これはもう人生の習慣になってしまう。
 新聞記者だったら、どこの社であろうと同じことだ。先日、出版された朝日新聞編集局長の外岡秀俊さんの著作「情報のさばき方」(朝日新書)の中でも、先輩記者から聞いたという、いかにも同業者らしい逸話が引用されていた。いわく、つまらない原稿を書くと「1行ごとに数万人の読者が離れていく」。胸にこたえる言葉であった。現実には、1行書くごとに「ああ、5万人減った」とか「ここはうまく書けたから3万人増えた」などと一喜一憂していては、とても原稿に集中できない。ゆえに、作家の井上ひさしさんの「難しいことをやさしく、やさしいことを深く、深いことを愉快に、愉快なことを真面目に書くこと」という言葉を心に刻み、原稿に向かうようにしている。
 難しいことも、できるだけ多くの人に伝わるよう、やさしく表現したい。ただ、やさしくするあまりに単純化した紋切り型の表現にしてしまい、読者に誤解を与えるようでは困る。「やさしいことを深く」表現したいものだ。「愉快に」というのは、ユーモアを大切にする井上さん一流の精神である。悲惨な出来事や科学的なことを書こうとする場合には、「愉快に」というわけにはいかぬこともあるが、「愉快に」という言葉に象徴されるユーモアの根底には、自分を突き放して笑い飛ばすこと、つまり自己批評の厳しさがある。書いていることが独りよがりになってはいないか、内省しつつ、真面目に書きたいものだ。もちろん、口でいうのは簡単。やってみるのは大変で、日々反省の繰り返しではあるが…。
 だから、今回の「読売新聞の読書面担当責任者として、どのように本を選び、書評の紙面をつくっているか」という注文にも、普段どおりに書けばよいとは思うのだが、どうも読者の顔がちらついてしまい、勝手が違う。なんといっても大学出版のPR誌である。当然、大学の研究者や教員、大学出版の編集者の顔や書店員の顔が浮かぶ。これが、よくない。大学や出版の関係者、書店員には、読売新聞の読者は相対的に少ないからである。先日も大型書店のジュンク堂池袋本店の副店長である田口久美子さんの「書店繁盛記」(ポプラ社)を読みながら、そのことを実感した。ちょっと引用します。
 〈私は毎日新聞の購読者という少数派なのだ。ちなみに何年か前に読売新聞社から、ジュンク堂社員(契約社員、アルバイトをのぞくので二十人弱)で読売新聞の購読者に「新聞へのご意見を賜りたい」と依頼されたとき、私ともう二人(日経新聞・東京新聞)を除く全員が朝日新聞の購読者であることが分かって愕然としたことがあった。彼等は一様に「朝日の書評をチェックしていて」と答えた〉
 田口さんは「愕然とした」というが、こちらは愕然の二乗である。確かに「朝日・岩波文化人」という言葉があったように、朝日新聞のロゴにはなんとなく文化の香り漂うし、書籍広告は充実しているから、よく参考にする。広告というと書評に比べて軽く見る人もいるが、私は反対です。本の帯や広告には、この本を読んでほしいという出版社の思いのたけがのっかっているから、本探しでは大切な情報なんですね。
 それにしても読売がゼロとは。だから、この原稿、なんだか敵陣に攻め込むような感じで書きづらい。
 前置きが長くなってしまったが、ここまで書いたところで、どのように本を探して書評しているかの説明は、大方終わってしまったことに気がついた。そんなバカな! と思われるかもしれないが、終わっているのである。あとは、残りの行数で、1日200冊以上が出版される出版洪水の時代に、どのように本を選び、書評しているか、具体例を交えて簡潔にお伝えしたい。
 まず、新聞の書評というのは学術誌など専門誌の書評とは違い、不特定多数の圧倒的に多くの読者を対象に、本の面白さを幅広く伝える役割が強い。ですから、できるだけ多くの人の意見を参考にして本探しをしている。そのために、担当の文化部記者が、文芸、論壇、美術、音楽、歴史など専門の担当の知識や情報網を活かし、編集者など出版関係者や著者等に、新刊情報を取材している。そして、長年、記者生活をしていると、本づくりの名人、本読みの名人という人が、なんとなくわかってくるものなんですね。記者には、それぞれの担当分野があるとはいえ、基本は素人。専門家ではない。そういう種族に大切なのは、それぞれの専門知識に詳しい人は誰か、という情報を把握していることです。だからこそ、名人たちとのネットワークは大切にしつつ、新たな名人探しも怠らないようにしています。
 これに加えて読売新聞では、2週間に1回、東京・大手町にある東京本社の会議室で読書委員会を開き、本選びをしている。これも本に関する情報や知見をできる限り幅広く知るためだ。委員会のメンバーは20人で、作家の川上弘美さんから文芸評論家の川村二郎さん、国立西洋美術館館長の青柳正規さん、大学教授や財界人、ノンフィクションライター、女優の小泉今日子さんまで多彩である。ちなみに、読書委員は今が旬という人が多いのは自慢です。この2年間で、角田光代さんが直木賞、町田康さんは谷崎潤一郎賞、脳科学者の茂木健一郎さんは小林秀雄賞、慶應義塾大学教授の清家篤さんは日経・図書文化賞、東大助教授の野崎歓さんは講談社エッセイ賞、東大教授の苅部直さんはサントリー学芸賞と、委員の著作の賞ラッシュが続いている。読書委員をお願いするに当たっては、その人の専門性も重視しているが、「この人の書評を読みたい!」という担当記者の熱意もかなり重視している。受賞によって、書評子の書評にさらなる関心が集まり、ひいては本好きが増えるとすれば、これほどうれしいことはない。
 さて、その委員会の進め方は、まず読書面担当の記者が粗選びした本と読書委員から推薦のあった本をリストとともに会場に並べ、委員全員に「これは!」という本を選んでもらい、2時間ほどかけて回し読みをしてもらう。その後、1時間半ほどかけて1冊1冊、書評に値するかどうか、自由討議する。そのうえで毎週、10本の書評を日曜朝刊の読書面に掲載している。
 新聞社によって書評本の選び方はさまざまだが、読売のように委員が直接に顔をそろえ、討議したうえで書評本を決めている社はない。朝日新聞も集まる方式だが、基本的には、やりたい本に○をつけた委員が自動的に書評者となり、あまり討議はしないと聞いている。ほかの社は、委員が推薦する本を自由に書評する形式や、新聞社の編集部が本と評者を選ぶなどの方式でやっている。読売ではなぜ、委員に集まっていただくかといえば、直接、顔を合わせた方が討議に熱が入るし、専門分野や感性の異なる委員の情報や意見が会場で飛び交うので、出席者一同、参考になること大だからだ。
 委員会のルールは、公正さを保つため、読書委員の本は取り上げない、同じ著者の本は原則1年に1冊しか取り上げない、など単純だ。このほか、新聞は一般の読者を基本的に対象にするので、1万円を超えるような高価な本やあまりにも学術的な書籍については書評しないという暗黙のルールもある。ただ、このルールの適用はケース・バイ・ケース。確かに高価本や高度な学術本というのは出版部数が少なく、実際に買う人も多くはないだろうが、その内容に優れた知見があり、ニュース性がある場合には、紹介に努めている。そして、委員には、その本のもつすごさ、面白さを簡潔に、煎じ詰めれば「難しいことを、やさしく、深く」書いていただくようお願いしている。そうすれば、仮に読者が読まなくても、いまの世界で、どのようなことが研究され、どのような思考が行われているか、つまり、いまの知の世界のニュースが伝わるからである。読書面というと、本に関心のない人は無関係とばかりに飛ばし読みする人もいるようだが、読書面とて、新聞の紙面である。ニュース性は大切にしているのです。
 また、委員の任期は原則2年とし、紙面が硬直化しないようにするとともに、委員会では落ちた本についても文化部の記者で構成する事務局で再検討し、ジャーナリスティックな眼から見て、とりあげたいという書籍については、「記者が選ぶ」という書評コーナーで紹介している。
 このように多くの情報、意見を参考にしながらつくっている読書面だが、読者からは「難しい本の書評が多くて、読みたい本が少ない」というお叱りを受けることが少なくない。一方で、「専門書の書評が少ない」という正反対の意見もいただく。新聞で書評する以上、多くの人に本に関心をもってもらいたい。だから、具体的な叱咤激励はありがたいし、より読者の声が届く開かれた紙面にしようと、投書や意見をメールやファックスで募集している。
 昨年からは読書面に、読者からの本に関するよろず相談に作家や評論家、学者らが答える「本のソムリエ」というコーナーを新設したり、海外で話題になっている未邦訳本をいち早く紹介する「フォーリンブックス」欄をこの夏つくるなど紙面刷新もしている。
 こうした紙面づくりをどう評価するかは読者の判断だが、新聞には譲れない一線がある。その一つが、あまりわかったふりはしないことである。もちろん、世の中には、かなり高度な科学的な研究や理論があり、ちょっとやそっとの努力ではわからないことが多い。しかも、こうした高度な問題は、世界の将来を左右する重大なテーマであることも多いのだが、重大な問題であればこそ、一知半解であることは危険である。まして、執筆者が権威だからといって、その考えに追随することはジャーナリズムの死につながる。もちろん、わかろうとする努力がまずは大切だが…。
 こんなことを書くのも、同じジャーナリズムとして、大学出版の方々に一言、もの申したいことがあるからだ。最近の大学出版の本は装丁や帯にも工夫が目立ち、伝統ある出版社の書籍とは見た目はまったく変わらない、手にとりやすく、編集者の「この本を伝えたい」という熱情を感じる、いわゆる体重の乗った本が増えている。しかし、中には、執筆者のひとりよがりな表現が目立ち、伝え手としての編集者の関わりが感じられない本もある。最近では、名古屋大学出版会のように、編集者の顔が見える本造りをしているところも出てきただけに、粗っぽい本造りは、かえって目立つ。書評の充実には、出版される本の充実も不可欠なんです。
 とはいえ、優れた本を見落とし、後で地団駄を踏むことが多く、反省の多き日々である。ただ、記者に出来ることは限られている。いい本を見つけるために、できうる限り、目と耳、足を使うことである。
(読売新聞東京本社文化部次長)



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