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行(ぎょう)の建築
滋賀県日吉大社八王子・三宮神社
松崎 照明
泉の山王恐ろしや 二宮 客人(まろうど)の行事の高御子(たかみこ)
十禅師 山長(おさ) 石動(ゆつるぎ)の三宮 峰には 人王子ぞ恐ろしき
院政期に編まれた『梁塵秘抄』四句神歌の一つである。
山王とは比叡山の東、琵琶湖側にある日吉大社(山王権現)をさし、二宮、客人、大宮、十禅師などの七社あるいは二十一社のことをいった。その社は、秀麗な姿の神体山・八王子山を中心に構成され、山頂付近の巨岩・金大巌(こがねのおおいわ)に、三宮と八王子の建物が建っている。
『平家物語』には、嘉保二年(一〇九五)、叡山の呪詛によって、八王子権現の神矢に倒れた関白・藤原師通(もろみち)を助けるため、母が卑しい者に身をやつし、八王子の社殿に七日七夜参寵して、やっと三年の延命を許されたとある。
この八王子(牛尾)の社殿と三宮の建物は、両殿とも金大巌に接して建てられ、建物全体が宙に浮くかのように、崖の上に並び立つ。山王は、山岳で厳しい修行をし、神仏の験(しるし)を得る修験者の行場(聖の住所)でもあったが、院政期には、人々の信仰が石山、長谷寺などの奈良時代以来の観音霊場(霊験仏)から、各地へ広がった霊験所とそこで修行する修験者へと移る。そして、この時期の建物は、切り立った断崖絶壁や滝裏に、霊験所の力や行者の験力(げんりき)を象徴するかのような、特異な懸造(かけづくり)の形で建てられるようになるのである。
山岳信仰の画期はこの院政期と先の摂関期にあるが、日吉大社の建築には摂関期の延暦寺僧・相応(八三一〜九一八)が深く関わっている。相応は日吉の社殿を再興し、延暦寺の寺塔だけではなく、神社、霊石、霊水など、比叡山中の多くの霊地を礼拝行道する、千日回峰行を始めたとも言われる。
この千日回峰行は、現在まで続けられる山岳修行の中で最も過酷な行で、始めの七百日は山上山下を毎日約三十キロ歩き、その後、不眠不臥断食で一滴の水も飲まず、壮絶な九日間の堂入(どういり)行を行ぅ。残りの三百日の内、百日には、京市街と山を一日八十四キロ歩く京都大廻りが待っている。
午前一時、比叡山無動寺から、回峰にむかう行者の後ろを、漆黒の闇に吸い込まれるように出発すると、根本中堂をへて西塔の中堂、横川中堂と、蛇を踏むような山道を進み、夜明けの雲を抜けて金大巌を拝し、麓の日吉大社、坂本へと下る。そこから峰道の中で最も急峻な無動寺坂の登りの約三キロを一気に駆け上がり、六時間を要する一日の行が終わる。
白の浄衣に、蓮の葉形の檜笠を着けた山を懸ける行者の姿は、一切の無駄が無い、研ぎ澄ました刃のように美しく、千日を積み重ねた所作と真言の力は従うものの胸を揺るがす。
(建築意匠)
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