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八重山春の三大稀種カミキリ採集記
栗原 隆
私がはじめて八重山に渡ったのは、今から18年前の春のことであった。そのころは蝶々の好きだった父に連れられて、わずか5日の行程で与那国島と石垣島に訪れた。東京では桜もまだ蕾だというのに、八重山ではオオゴマダラやリュウキュウアサギマダラ、アゲハチョウ類などが飛び回っていた。とても日本とは思えない光景に、小学生であった私は強い衝撃を受けたことを今でも覚えている。
私が虫採りをするようになったきっかけは、偶然、生まれてきたところの父親がいわゆる昆虫愛好家であったからである。物心つく前から、私の意志とは関係なく野山に連れられ、知らない間に昆虫採集が生活の一部になっていた。父の周りには多くの蝶愛好家がおり、世の人々は皆、虫を採って遊んでいるような錯覚さえ覚えた。しかし、小学校に入って数年後の2学期に1つの事件が起きた。虫ばかり採りに行っていた夏休みが終わり、私はどこの学校にでもある自由研究の課題として、昆虫標本を学校に持っていった。ところが、それを見た先生は、「生き物の命は大切にしなければならない、だから虫を殺すことはいけないことだ」、と私に説教をはじめた。世の中では、家に入り込んだゴキブリや血を吸う蚊をみんな殺しているではないか。私は子供ながらに納得がいかず、そのころから学校の先生にはどこか、不信感を抱くようになった。しかし、先生に反抗する勇気もなく、結局、別の課題をやらされてしまった。そんな事があった後、私は八重山デビューをしたわけである。当然、先生にいわれたからって納得できなければ従わない、今思うと扱い難い生徒だったに違いない。
最初の八重山では、私は必死に蝶を追いかけていた。やはり、見るものほぼすべてが、はじめての蝶である。内地では甲虫も集めはじめていたが、図鑑でしか見たことのない憧れの蝶が目の前を飛んでいるのに、それを追いかけずにいられるだろうか? そんななか、石垣島のオモト岳の麓をはしる林道で、内地でよく見る赤いハナカミキリがふわふわと飛んでいた。このころから、リンゴカミキリのような飛んでいる甲虫を採ることは大好きだったので、捕虫網で採集した。しかし、小学生の私にはやはり、内地で最普通種のアカハナカミキリにしか見えない。私はとっさに、「バカハナって沖縄にもいるんだ、こんなのいらないよね」、と逃がそうとした。しかし、父は「せっかくだから採っておいたら」、と今となっては神様のような一言をいった。カミキリの愛好家であればお気付きであろうが、このバカハナと私によばれた種こそ、その当時、八重山の春のカミキリ三大稀種とうたわれたヤエヤマヒオドシハナカミキリであった。現金なもので、珍しいとわかると興味がでるものである。このときから、私はカミキリ採集に目覚め、残る二稀種であるムネモンウスアオカミキリとマツダクスベニカミキリを採ることを夢見て八重山に通うようになった。
八重山諸島は石垣島のオモト岳(526メートル)が最高地点で、そのほとんどが亜熱帯気候に属しており、森はスダジイやタブノキ類などの照葉樹主体で構成されている。この地域のカミキリムシ科に属する種は、現在まで、120種弱が記録されている。その多くの種は3月から発生がはじまり、梅雨が明けると大部分は見られなくなる。八重山のカミキリは、多くの種類が関東地方では見ることのできない南方系の種類で、最初のころは何を採っても真新しい、まさに楽園のようであった。枯葉を叩けば、茶色いカミキリたちが叩き網の上に降り注ぎ、我先にと走って逃げる姿をよく目にしたものだ。
八重山に通うようになって4年たった1992年の春、私はとうとうマツダクスベニカミキリと出合った。この年は、オモト林道のヤンバルアワブキが良く花をつけている年で、いくらか咲いている木も見られた。輝く宝石・オオヒゲブトハナムグリでもいないかと見てまわるが、掬ってもオキナワコアオハナムグリやヨナグニヒラタハナムグリしか入らなかった。諦めかけながらも、一本のヤンバルアワブキを見上げていると、なにやら赤い虫が梢付近を飛んでいた。やや斜めに立ったような独特な飛び方はまさに、マツダクスベニカミキリであった。すぐさま8メートルの竿で掬うと、あっさり網の中へ入った。実際に見ると、光沢のないぼやっとしたオレンジ色をしており、正直、あまり格好よくない。内地のクスベニカミキリの方が私は好きだ。そんな罰当たりなことを考えていたからか、その後、本種を目撃する機会はなかった。その日の午後は、川平在住の深石氏のもとへ行った。ちょうど彼は、オオヒゲブトハナムグリの生態観察のために、裏山のヤンバルアワブキに観察用の足場を組んでいた。そこに案内していただいたのだが、目的地へは道もろくになく、いかにもヒルやヘビが出てきそうな湿った林内をただひたすら彼について歩くしかなかった。まだ、サキシマハブと雖も怖い年頃である。私には長い時間に感じた行程を過ぎ、林の中の小さな空間に出た。早速、観察用の足場まで登っていくと、花に止まっているオオヒゲブトハナムグリを見ることができた。まさに緑や赤の宝石が白い花に添えられたような錯覚に陥る美しさであった。
翌年の1993年は、はじめて1人で与那国島へと渡った。とはいっても、数日後には父と与那国島で合流する予定であったが。このとき、私は中学3年で、まだ、原付を運転することはできず、島を自転車でまわっての採集となった。祖内を拠点とし、桃原や比川、久部良岳などを目指すが、とにかくこの島は坂だらけである。最近のドラマで主人公の医者が自転車で往診をしていたが、実際に診療所から久部良を往復するだけでも大変である。私は炎天下の中、必死の形相で自転車を走らせていたに違いない。このときは何を採ったかすら覚えていない。父と合流後は、西表、石垣とまわり、最後にはじめて宮古島に寄った。今回はわずか半日の採集であったが、熱帯植物園のタブを探せばミヤコリンゴカミキリがいるとの情報をもとに、早速向かった。はじめは園内の尾根道に向かって歩き、歩道沿いのタブを見てまわると、ふわふわと独特の飛び方をする虫が目に入った。採ってみるともちろん、ミヤコリンゴカミキリで、タブの新葉の主葉脈には独特の加害痕が多数見られた。慣れると本種がいかに個体数の多い種類かがよくわかる。やはり、飛んでいるカミキリを採るのはおもしろく、あっという間にタイムリミットとなった。
1994年は私にとって厄年となった。昨年同様、まず私は1人で与那国島へ入り、取立ての免許を使ってはじめて原付で島をまわった。与那国はもう6回目であり、数日間、いつも採集してまわるポイントを転々としながらチョウ、ヨナグニジュウジクロカミキリやドウボソカミキリ類などを採集してまわった。そして、その日がやって来た。今回は石垣島で家族と合流する予定になっていたが、頭がくらくらして起きられない。それでも何とか空港まで行き、意識を失いかけながら石垣のなぎさ荘へようやく着いた。熱は39度をまわっていて、とりあえず宿の女将さんに介護されて翌日、家族と合流した。私はそのまま病院に連れて行かれ、ウイルス性の風邪と診断された。そんななか、ホテルに移された私をよそに、父は1人で採集に出かけていった。今回は母と妹も来ていたが、それにしても病床に伏せる息子を置いて採集に出かける父とは……。私は虫屋の恐ろしさを知った気がした瞬間であった。結局、その後3日間何もできなかったが、最終日に執念で日の出前にオモト岳登山道の有名なヤンバルアワブキに向かい、昼まで樹上で粘るがマツダクスベニカミキリとオオヒゲブトハナムグリを少し採集したに止まり、下の方にいた大学生はムネモンウスアオカミキリを一頭採集していた。あこがれの虫が足元にいたという悔しさを抱き、私は山を下りた。
その悔しい思い出が晴らされることになったのは、5年後の1999年であった。まさに、それは突然やって来たといっても過言ではなかった。この年は、川平の深石氏宅へ居候させて頂き、3月3日〜4月5日まで1カ月余り、石垣島を中心に採集を行った。さすがに3月上旬では、カミキリの発生もまだ早く、ビーティングやスウィープをしても1年中見られる種類やアメイロカミキリがポツポツ落ちる程度である。それならと、3月10日に材採集を目的に小雨の振る中、オモト岳の山頂まで登った。雨もひどくなり、山頂とNHKの鉄塔へ向かう分かれ道を鉄塔側に少し進んだ先の窪地で雨宿りをしていると、見たこともないホタルがシダの上に止まっているのを目撃した。深石氏はホタルについて豊富な知識をお持ちで、採集した個体を早速、見ていただいたところ、ムネグロボタルという非常に珍しい種類であることがわかった。ほかにも、オモト林道でタブのスウィープによりイシガキトサカシバンムシ、海岸ではキタヤマホソケシマグソコガネなど、興味深い甲虫類を得ることができた。そして、今回の旅行も終盤に入った3月29日、運命の日が訪れた。この旅行で何度目になるか、通い慣れたオモト岳の登山道を歩いて行き、いつものようにヤンバルアワブキを見ながら登っていく。途中、山頂まで40分の看板のかかったアワブキを見上げると、なにやら葉の裏に静止していたカミキリのシルエットを見つけた。今まで通り、イワサキキンスジカミキリだろうと網を伸ばして掬い、中を覗き込むと……。青と表現するべきか? 独特の美しい色をしたムネモンウスアオカミキリが目に飛び込んだ。自然と出るガッツポーズ。足掛け11年目にして、八重山春の三大稀種を自分のこの手で採った感動は、その後の私の人生を方向付けるきっかけになった。もう、4年も八重山から遠ざかっているが、春になるといつも懐かしい思い出と行きたいという衝動が、私の心に湧き出るのはいうまでもない。
(愛媛大学)
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