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能楽の四季 夏
能舞台の下の大甕
中西 通
丹波篠山の能楽殿は文久元(1861)年の建立である。時代的にはさほど古くはないが、式楽時代のもので完全に残っているものは全国的にも少ない。しかも棟札には、仕事にかかわったあらゆる職人の名が記録されている。
明治以降は演能の回数も少なく、通常は雨戸が立て掛けられており、毎年10月16、17日の神社の祭礼が行われる神嘗祭のときであった。この町に生まれ育った者、特に男子は成長とともに祭とのかかわりが変化し、太鼓御輿や鉾山の乗り子から長じて御輿の担ぎ手となり、若者ぶりを誇示する。
話が外れたが、この舞台の下に音響効果のためであろう大甕が配置されている。祭でないときは境内は子どもの遊び場、床下の大甕はかくれんぼの絶好の場所であった。
この大甕、現在残っているのは本舞台の下に五個、後座に二個の七個。橋掛りの下にあったといわれる四個は今はない。
確かに甕の上で手を叩いただけでも響鳴があるのだから、演能上かなり重要な役割をもつ足拍子の重々しい響きには工夫をこらしたのであろう。陶器の用途としても格別のもので、昔の人の発想の豊かさに関心する。これは、ホールや仮設の舞台での観能の際、いつも感じさせられることである。
篠山の舞台の場合、甕の大きさは口径約七十五糎、高さ約一米である。その口の部分を舞台中央に向けて配置し、底を摺鉢状に掘って安定させ、口造りの両側に杭を打って約四十五度角に固定してあったと思われるが、その杭は今は朽ちている。この配置の方法は全国の舞台では篠山だけで、他の舞台のものは真上に向いている。さらに口縁部まで埋めてあるもの、胴の真中あたりまでのものと、大小も含めてさまざまである。さらに興味があるのは、所によって大甕の生産地が異なることである。
西本願寺の甕は信楽焼、金沢で見たときは四国の大谷焼、岡山は当然、備前焼である。
しかし、この「縁の下の力持ち」として演能に大きな役割を果たしてきたであろう大甕の存在も、識者の間でたまに語られることがあっても、何処の舞台の下には何の時代の何窯の大甕ということを調査した人はいないのではないか。舞台建立の年代と大甕を焼成した窯とその年代などがわかると、建築史的にも、芸能史的にも意味のあることではなかろうか。
ちなみに篠山の大甕はもちろん丹波焼で、建立時に特に焼かせたもので「立杭釜屋村源助作」と記されている。
(能楽資料館 館長)
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