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威信のための装置
箕輪成男
正確さと真理
オックスフォード大学出版部はしばしば500年の歴史をもつといわれる。しかしそれは中世末期の大学町オックスフォードに設けられた最初の民間の印刷所が、大学の認可の下に書籍の生産をはじめた1487年を起点とした場合の話である。大学自体が自ら運用する印刷所を設置し、印刷、出版活動をはじめたのは、はるか200年後の1690年である。ハリー・カーターは彼のオックスフォード大学出版部史第一巻で、1690年以前を前史、1690年以後を歴史と区別している。
オックスフォードにおける印刷・出版500年の歴史からさらに遡ると、12世紀の大学設立以来300年間は写本時代である。印刷以前の時代においては、著述は写本でなされた。写本は最低発行部数などを心配する必要がなく、ただ1人の読者のためにでも注文生産できる好都合な側面をもっていたが、その泣き所は筆写の過程で間違いが起るのを避けにくいことであった。いったん公表されたあと、次々に転写される過程に監視の目を行き届かせることは不可能であった。早くもローマ時代に出版者として名声を博したアッティクスのアッティカ版は、筆写の正確さによってその声価を高めた。それでも著作権のない古代では、アッティカ版を無断筆写することができたのだから、基本的に誤写の発生は避けられなかった。
こうして後世に伝えられた古典には、多くの異同がふくまれることになり、その正否を校証することが、ユマニストたちの重要な仕事になった。写本時代に属する中世の大学社会では、この問題に対する対策のひとつとして、大学による写本の管理が行われた。大学出版部の遠い先祖ともいうべきステーショナー(大学認定の写本業者)に対し、大学が範本を提供すると共に、作製された写本の正確さを随時チェックしたのである。印刷時代になると、大学出版部のより近い先祖、大学印刷人に指定された印刷業者は組版の正確さを厳守するよう大学の指示・監督を受けた。印刷によって、写本時代よりはるかに事態は改善されたものの、相変らず誤植の発生は避けられなかったのだ。
このように著述の正確さが求められたのは、学問が誤りのない知識すわなち真理を追究するものであるからだ。真理を追究する書物の内容がいい加減では学問にならない。学者のレーゾンデートルは名利を超越して真理の追究に献身し、その結果物事の真の姿と、あるべき姿を発見し、それを人々に提示することにある。
ただし、ここで言う真理は、かつてのようにかなり主観を交えた「絶対的真理」を意味しない。科学の時代になると、それは相対的真理に転換する。「真理」はその時点で考え得る最良の説明にすぎない。環境が変わってうまく説明できなくなると、新しいパラダイムが考えつかれ、再びよりよい説明が与えられる。科学時代の真理は、こうしていつかは乗り越えられることを予定した、つかの間の相対的な真理なのである。
威信をかけた「発表」(=publishing)
科学以前の絶対的な真理であれ、科学以後の相対的真理であれ、それを追求する学者の真摯な営みは、そのすぐれた才能と献身によって、そしてまた彼らの発見した真実の意味の重大さによって、人々の尊敬と信頼を集めることになる。学者における権威の発生である。学者とその集団である大学が身につける威信といってもよい。辞典には権威とは「人を納得させるだけの信頼性があること」とあり、威信とは「人・国家などがもっている威光と信望」であるとされている。大学における教育もまた大学と教員の権威を前提として成立している。大学は単なる情報伝達を行っているのではない。教員の保持する権威、威信の力が、学生に対する教え込み(インドクトリネーション)を可能にしているのだ。
学問の世界を統合する原理は、このように真理の発見のために献身し、真実を求めて生きる学問共同体の成員に対する相互信頼である。大学教員への加入の審査は大変厳しいが、一旦加入したあとは成員に最大の自由が認められるのはこの原理から来ている。だから学者にとって、その真摯な研究・教育活動により自己の権威を高めることは、大学共同体の成員としての基本的義務である。大学の権威はそれら個々の成員のもつ権威の総和にほかならないからだ。
さて学者がその権威の確立を目ざして自らの発見を学問共同体の仲間に問いかける手段は著述を通してである。だから著述とその複製の行為は、学問の世界における権威確立の作業そのものである。その意味で大学出版部の社会的機能を、学術情報の伝達と捉えるのは必ずしも適切ではない。たしかに「情報の伝達」は、新知見の生産からその評価、選衡、整理、複製、送達、利用まで、学問の還流のすべての過程をふくむ概念と考えることも可能だが、一方で「伝達」は、時間と空間の制約を超えた物理的送達の意味に狭くとらえられる恐れが大きいからである。学術出版は研究成果の「伝達」(transfer)というより研究成果の「発表」(publish)という方がその間のニュアンスをよりよく反映するように思われる。
というわけで研究者が論文や単行本を通して研究成果の発表を行うのは、決して研究者仲間に自分の新しい発見を伝えたいためではない。自分の達成した成果が、レフェリーに評価され、権威ある雑誌や専門書に権威ある様式で収録、複製され、彼の研究者としての威信が高まることを期待しているのである。それは自己の名誉心の充足のためであって、格別利他的に情報を学者仲間に提供したいわけではない。伝達は発表という学界のメカニズムの結果として起きるにすぎない。自己の名声をかけた作業だから、研究者は時間や金やあらゆるものを犠牲にしてでも研究にのめりこむのである。こうして個々の研究者が威信の獲得のために行う研究発表は、学問共同体を組立てる基本的メカニズムとして定着し、多年機能してきた。それなくしては学問の世界は崩壊するにちがいない。
権威を創出するもの
大学出版部は学問共同体の止ることのない研究活動の還流の中で、研究者が研究発表によって威信という成功の報酬を確保するための装置なのであって、単なる出版機関としてあるのではないのだ。大学出版部は学者と大学の権威増幅機関として発達してきた。学者と大学は大学出版部がなければその著述を公刊できないわけではない。たとえばヨーロッパに、オックスフォードやケンブリッジの大学出版部が生まれたのは、むしろ例外的なケースであったとも考えられる。これらの出版部がイギリスに生まれたのは、イギリスが自国産業の保護と文化的自立政策をとる中で、高度な学術書を出版する技術力・資金力を持たなかった未熟なイギリス出版産業に代わるものとして興したのであり、多分に国策的産物であったのだ。王室が両出版部に、聖書出版の特権を与えたのもそのためである。
一方、アメリカの大学出版部は広大な国土がその背景にある。地方の大学では、学術発表に必要な印刷サービスを地方で得られなかったから、それを補完するために大学出版部が着想されたのである。
というわけで、むしろ特殊な事情の下に始まったのが大学出版部であり、書籍を通しての学術発表は、決して大学出版部が独占してきたわけではない。しかしその使命をより直接的に、深刻に受け止めているのが大学出版部であることはたしかだ。各出版部は、母体大学の威信をかけて大学の名前を称えているのである。
いま世界には300ないし400の大学出版部があると思われる。アメリカには大学出版部協会(AAUP)の正・準会員が約100校、アジアでは日中韓を中心に100校以上、ラテンアメリカ30校、アフリカ25校、ヨーロッパ、ロシア、インド、オセアニア等で少なくとも50校ないし100校である。
印刷術の伝播、出版業の確立の早かったヨーロッパ大陸では、学術出版機能は民間出版社が伝統的に担当することが多かったから、大学出版部はむしろ少ない。これに対し発展途上国では、各国を代表する主要大学に、大学出版部の設けられたものが多い。国の学術振興政策の重要な一環として位置づけられているのである。
そして再びの「原点」
大学出版部の財政的存立基盤から、われわれに二つのモデルを考えることができる。大学出版部の財政を、大学、政府、諸財団等、外部からの補助金によってまかなうアメリカモデルと、学術書以外の、例えば教科書等、採算性のよい書籍を併せ出版することによって、学術書の赤字を補填するイギリスモデルである。ただし、これらのモデルはあくまでも理念形であって、現実の出版部の多くは両モデルの混合型であり、しかも情勢に応じて、二つのモデルに対するシフトを変えつつ運営しているのである。
大学出版部が大学の威信をかけて活動する上で三つの原則がすでに確立している。第一は刊行書の評価、選別における客観性、公平性、優秀性の確保であり、第二は複製上の高度な質の実現である。そして第三は最善の事業効果の達成である。第一の企画編集は学問共同体における権威樹立過程への直接参加にほかならない。その努力の結果が長いスパンでしか確認できない微妙なものであり、かつ判断の要素が多分に加わるだけに、この原則の維持はいっそう困難である。第二の原稿編集は目に見える形での発表の質の提示にほかならず、学者と大学の権威により直接的に影響を与えるだろう。第三の事業効率もまた大学出版部の存立にとって最も重要な問題である。学術出版の成功には多年にわたる持続的努力が必要だが、そうした持続を可能にする資金の計画を長期的に確保・確立することは決して容易でないからだ。
こうして大学出版部の基本的な機能が、決して情報伝達そのものにあるのでなく、研究者と大学の威信の創出、強化にあるのであるとするならば、人々に期待を寄せられているIT革命も、残念ながらあまり学術出版の助けにはならないのではないかと思われる。インターネットで、たしかに「情報」の伝達は便利になる。しかしそこに評価も選衡もなく、編集・整理もないとしたら、それは、どこのものともわからない、ゴミのような情報となる。そこでは、人々はみずから評価し選別しなければならない。そうしたメディアには、権威や威信は生れにくいのではなかろうか。研究者の達成感を満足させ、成果を顕彰するに十分なメカニズム抜きで、学問の世界は存立し得るのだろうか。
(神奈川大学名誉教授)
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