回想 慶應義塾
価格:6,380円 (消費税:580円)
ISBN978-4-7664-1993-1 C0037
奥付の初版発行年月:2013年01月 / 発売日:2013年01月下旬
元慶應義塾長が紐解く歴代塾長の足跡。
▼世紀の転換期に慶應義塾長を務め、その後も文部科学省中央教育審議会の初代会長を務めるなど、教育行政に長年関わってきた鳥居泰彦氏による慶應義塾の歴史叙述。
▼福澤諭吉が慶應義塾を創ってから155年、変遷する社会のなかで社中の支援を得ながら着実に発展してきた慶應義塾の道のり、そして歴代塾長の先導と行動の軌跡を丹念にひもといてゆく。
鳥居 泰彦(トリイ ヤスヒコ)
昭和11年生まれ。
昭和36年慶應義塾大学経済学部卒業。
昭和41年慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程修了。
昭和42年スタンフォード大学訪問研究員、昭和43~44年カリフォルニア大学バークレー校国際研究所研究員、昭和44年慶應義塾大学経済学部助教授、昭和51年慶應義塾大学経済学部教授に就任。
平成元年~平成5年慶應義塾大学経済学部長。
平成5~13年慶應義塾塾長。
現在、慶應義塾学事顧問、慶應義塾評議員、慶應義塾大学名誉教授、交詢社理事長、全日本学生剣道連盟会長。
また、日本私立学校振興・共済事業団理事長、内閣府中央銀行研究会会長、同府司法制度改革審議会委員、厚生労働省 老人保健審議会会長、資源エネルギー庁総合エネルギー調査会電気事業分科会会長、文部科学省顧問、同省中央教育審議会会長、開発技術学会会長、East Asian Economic Association会長等。
著訳書
『経済発展理論』経済学入門叢書 10(東洋経済新報社、1979年)。
『地球社会への展望』(共著、日本生産本部、1980年)。
『アジアと日本』(共著、勁草書房、1985年)。
『経済発展理論-実証研究』(ヨトポロス、ヌジェント著翻訳)(慶應
通信、1984年)。
『フュチャー・オブ・エコノミクス』(監修、同文書院、1992年)。
『はじめての統計学』(日本経済新聞社、1994年) 。
目次
序 文
第一編 文明の光 迫る外圧
一 慶雲應輝――慶應義塾の命名
開国しなければ日本が危うい―日米和親条約と日米修好通商条約
芝新銭座『慶應義塾之記』
「慶應」の由来―慶雲應輝
見よ風に鳴る我が旗を―塾歌の誕生
二 外圧――開国を迫るロシア・アメリカ
露寇の時代
アメリカと欧州諸国の開国外圧
第二編 福澤諭吉 奔る
一 義塾草創期の塾長達の群像
二人の「初代塾長」
慶應義塾仮憲法制定以前の十二人
飯炊きでも何でもやるぞ―初代塾長岡本周吉
二人目の塾長 岡田摂蔵―孫娘モスクワに眠る
三人目の塾長 足立寛―日本の医療制度の父
小幡篤次郎―福翁の名を高めた人物
二 明治維新の慶應義塾
東京遷都、版籍奉還の中で『西洋事情』『学問のすゝめ』
阿部泰蔵―文明開化の先達
小幡甚三郎―ニュージャージーに眠る
荘田平五郎―学制公布から三菱財閥の形成へ
荘田平五郎―塾長から三菱商会へ
三 西南戦争に至る大混乱の中で『文明論之概略』
『文明論之概略』を出版
慶應義塾の危機
浜野定四郎―慶應義塾仮憲法への途を開く
四 慶應義塾の新時代を作る
慶應義塾仮憲法
仮憲法で選ばれた初代塾長濱野定四郎
福澤諭吉の旺盛な執筆活動
小泉信吉―大蔵省から横浜正金銀行へ
『時事新報』創刊と二日目の社説「伊藤参議を餞す」
塾長小泉信吉のこと
小幡篤次郎、いまひとたび
五 明治十四年の政変前後
『唐人往来』―維新は国家の危機であった
書契問題―征韓論と西南戦争
不換紙幣の乱発が起こした超インフレ
『通俗民権論』と『通俗国権論』
明治十四年の政変とは何であったのか
横浜正金銀行の創業
小泉信吉 大蔵省を辞して塾長に
地租改正と農民一揆
花房公使の一件
金玉均の追善法要―福澤諭吉の心、アジアを包む
覚書 言い尽くせぬこと
第三編 福澤諭吉 虎視眈々
一 虚々実々――福澤諭吉と伊藤博文の静かな闘い
憲法制定要求と民権運動の萌芽
福澤諭吉を信奉した大隈重信
伊藤博文、憲法調査の旅
福澤諭吉とシュタインの書簡の往復
福澤門下への風当たり
二 学塾の基礎――慶應義塾規約と義塾維持会
立憲改進党結成に際し、福澤諭吉 小幡篤次郎を庇う
交詢社の設立と憲法草案
私立普通中学校から私立大学校へ
初めてのガバナンス規約
評議員選挙制度の誕生
三 初めての対外戦争
日清戦争の予感―山陽鉄道海岸線案
福澤の社説、「東洋の波蘭」に集中する
「東洋の波蘭」
朝鮮の事変
社説「脱亞論」
福澤諭吉、日清戦争を憂う
日清戦争、戦費の調達
福澤諭吉、献金を呼び掛ける
小泉信吉への弔詞
諾否の二字あるのみ―日清戦争の決着を迫る
覚書 アジア主義
四 最晩年の福澤諭吉――伊藤首相との静かな懐古
福澤諭吉、塾長を務める
伊藤博文の変化―政党内閣の理解
尾崎行雄 共和演説事件
大隈内閣崩壊・憲政党崩壊
狸そば別邸の園遊会―福澤と伊藤の静かな懐古
明治卅弐季後之福翁
五 福澤諭吉 ロシアの脅威を睨む
義和団の乱を報道し続ける
福澤諭吉最後の六カ月の「社説」
ロシアを睨む
最後の教訓―父母の教え
明治三十三年の福澤諭吉―ロシアの脅威
六 社頭福澤諭吉を失った慶應義塾
鎌田栄吉の帰国
「修身要領」の制定―鎌田塾長の回想
福澤諭吉の最後の揮毫
福澤先生を送る
福澤諭吉の菩提寺と墓地
福澤先生長逝後の慶應義塾―鎌田塾長の『自傳を語る』より
七 日露戦争――初めての近代総力戦
最晩年の福澤諭吉、ロシアを論ず
日露国交断絶止む無し
日露戦うべきか、戦争回避か―無鄰庵会議
高橋是清の戦費調達
留学生派遣
慶應義塾維持会の創設
大正初年の政友会政変
八 「財団法人慶應義塾」
慶應義塾は誰のものか
三田山上の慶應義塾―福澤捨次郎の発言
大学の心臓 図書館
月波楼のこと
覚書 戦災そして創立九十年
第四編 廃墟からの復活
一 外戦の時代を生きた慶應義塾――鎌田栄吉・林毅陸・高橋誠一郎・
小泉信三を偲ぶ
福澤諭吉廃墟に立ちて何を想う
時代を支えた指導者四人
原敬内閣・高橋是清内閣
加藤友三郎内閣の文部大臣、鎌田栄吉
福澤一太郎塾長の時に関東大震災
関東大震災、慶應義塾の被害
復旧だけでは不十分、新校地を求めよう
覚書 幻の洗足キャンパス
教室の充実、幼稚舎・普通部の移転
二 日吉開校 義塾教育の躍進――小泉信三の時代
小泉塾長と藤原工業大学
小泉信三塾長を偲ぶ
日米開戦・戦中・戦後――槇智雄、小泉塾長を偲ぶ
覚書 小泉塾長のキュービクルと執務机
覚書 小泉先生と松本烝治の憲法草案
三 戦争と慶應義塾
出陣学徒慰霊のこと
慶應義塾戦没者追悼会挨拶
追記
靖国神社 北白川宮の展示品
戦争、剣友・柔友との別れ
剣道部 最後の早慶戦
三田剣友会 坂本充 特攻隊に死す
野球部最後の早慶戦―小泉信三塾長の餞
四 占領下の文部大臣
文部大臣高橋誠一郎
文部大臣高橋誠一郎を囲む人々
石丸重治秘書官
『童蒙をしへ草』の愛国心
高橋誠一郎の晩年
五 義塾紛争の十年
七回の紛争のこと
(一) 昭和四十年学費値上げ紛争
(二) インターン制度廃止要求紛争
(三) 米軍資金反対紛争
(四) 大学立法反対紛争
学生紛争の中で―剣道部長 伊藤乾先生
(五) 食堂値上げ反対運動
(六) 昭和四十七年学費値上げ反対紛争
(七) 昭和五十年学費値上げ反対紛争
第五編 新時代を創る
一 新しい時代を創る――石川忠雄塾長を偲ぶ
慶應国際シンポジウム―SFC発想の母体
湘南藤沢キャンパスの開設
新図書館の建設
塾長交替のこと
萩原吉太郎翁の「若造」教育―計算機物語
烈士暮年――最晩年の萩原吉太郎翁
二 慶應義塾と医学
大学の原型
明治六年慶應義塾医学所
現代日本の医学部
「慶應義塾医学所」開設の新聞広告
福澤諭吉と松山棟庵の立ち話
贈醫―医師への教訓
鎌田塾長 医学部創設を語る
医学部の土地―信濃町校地取得の顚末
慶應医学賞を創る―「医学の競争」と「医学の仲間」
第一回慶應メディカルサイエンスプライズ―スタンレイ・
ブルジナー
慶應医学賞とノーベル医学賞
追憶の落穂あれこれ
総合医科学研究棟
鶴岡先端生命科学研究所
看護医療学部―桂の並木の学校
大鷹騒動、そして桂の並木
三 創立記念日と世紀送迎会
慶應義塾の創立記念日
創立二十年前後―廃校寸前の慶應義塾
創立五十年記念式典
創立七十五年記念式典
創立九十年―廃墟と化した慶應義塾
八角塔余話
創立一〇〇年記念式典―廃墟からの再出発
創立一二五年―簡素で盛大に
創立一五〇年―今上天皇の御心配り
百年前の世紀送迎会―十九世紀を送り二十世紀を迎える
転載「十九世紀から二十世紀へ」―服部禮次郎
百年後の世紀送迎会―二十世紀を送り二十一世紀を迎える
鼎談 橋本龍太郎、竹中平蔵、鳥居泰彦
第六編 塾員山脈
一 福澤諭吉と体育会
福澤諭吉、体育会を創設
福澤先生と剣道部
福澤先生と柔道部
鎌田塾長の遺墨
早慶戦の話―明治三十六年第一回早慶戦、明治三十九年早慶戦中止
第一回早慶戦のキャッチャー、青木泰一―原泰一おじいさんのこと
早慶戦 戦わざる頃の野球部
三大学リーグ戦から六大学リーグ戦へ
早慶戦復活と慶應義塾百年祭
二 卒業生を語る
三権の長を偲ぶ
橋本龍太郎総理を悼む
橋本・エリツィン電話会談
逝った卒業生達への鎮魂歌
結 語
卒業する諸君へ―大学卒業式 塾長告辞
主な引用文献・参考文献
謝 辞