フーコーの闘争 ― 〈統治する主体〉の誕生
価格:2,750円 (消費税:250円)
ISBN978-4-7664-2066-1 C0010
奥付の初版発行年月:2013年09月 / 発売日:2013年09月中旬
「闘いのとどろきを聞かなければならない」 ミシェル・フーコー
▼フーコーの権力論は1970年代半ば、『監視と処罰』と『知への意志』で頂点に達する。だが『狂気の歴史』に始まり、六八年五月を経て深化した、ラディカルな思索は、運動の退潮に伴い、権力と抵抗の二元論として受容された。闘争や抵抗は、その事実ではなく可能性のみが語られるようになった。しかしこの時期、フーコーの思索には新たな展開が生じていた。〈統治〉概念の導入を契機に、権力論が再構成され、倫理、自由、主体化、パレーシアの概念を軸に、独自の主体論が立ち上がる。そして〈統治〉する〈主体〉が姿を現す。
▼後期フーコーは「権力があるところに、抵抗がある」には留まらない。権力関係を成立させる〈自由〉に賭けるのだ。自由を用いる統治する主体は、「主観的な」真理によって、自己と他者の振る舞いを導き、他者から導かれる。
闘争とは、既存の導きのあり方を問い、導きの向きを変えることだ。それは絶えることのない、他者の導きへの叛乱であり、自己への反逆である。後期フーコーにおける生の美学、自己の倫理、自由の実践は、自己と他者への統治的なはたらきかけを指す。統治論が問うのは「いかにこのように統治されないか」である。現在性の哲学、現代統治性批判としてのフーコー思想は、この地点からこそ読まれるべきだ。
▼後期フーコー権力論の転回、その可能性の核心を捉える俊英の鮮やかなデビュー作。
箱田 徹(ハコダ テツ)
立命館大学衣笠総合研究機構専門研究員。
1976年生まれ。京都大学経済学部経済学科卒業。神戸大学大学院総合人間科学研究科地域文化学専攻修士課程修了、同大学院人間文化科学専攻博士課程修了。博士(学術)。
著書に、『フーコーの後で――統治・セキュリティ・闘争』(芹沢一也・高桑和巳編、共著、慶應義塾大学出版会、2007年)、訳書に、ジャック・ランシエール『アルチュセールの教え』(共訳、航思社、2013年)、クリスティン・ロス『六八年五月とその事後の生』(インスクリプト、近刊)などがある。
目次
序 章 フーコー統治論をめぐる状況
1 はじめに
2 後期フーコーと統治論はいかに論じられてきたのか
3 本書の構成
第1章 誘惑される権力――抵抗の先行性と不可能性をめぐって
1 概念としての抵抗の不在
2 監獄情報グループと〈耐えがたさ〉の政治性
3 誘惑する権力―― 「汚辱に塗れた生」の権力論
4 抵抗と権力から導きへ
第2章 規律訓練とエロスの技法―― 〈導き〉のキリスト教型権力モデル
1 権力装置のタイポロジーとその特徴
2 性の科学とエロスの技法――二つの真理モデルと二つの主体化
3 エロスの技法と自己の主体化
4 規律訓練権力論から〈導き〉へ
5 性の科学とエロスの技法の不可分性から統治概念へ
第3章 司牧権力の系譜学――新自由主義批判から自己と他者の統治へ
1 司牧権力概念の確立
2 世俗的司牧権力としての国家理性論
3 政治経済学の誕生と自由主義型統治性
4 新自由主義の統治性――社会そのものに介入する統治
5 統治分析の一般的射程
第4章 イスラーム的統治は存在しない
――政治的霊性としての〈対抗導き〉
1 「イラン革命」という出来事
2 ジャーナリスト・フーコーのイラン情勢分析
3 イスラーム的統治と政治的霊性
4 〈対抗導き〉としてのイスラーム的統治
5 イスラーム的統治は存在しない
第5章 用いる者と用いられるものは別である
―― 一九八〇年代統治論の展開
1 司牧から統治と導きへ
2 統治実践としての自己への配慮――プラトン 『アルキビアデス』
3 ヘレニズム哲学による〈倫理的な〉主体としての自己
4 主体論と権力論の統合としての自己への配慮
終 章 抵抗と権力から統治する主体へ
1 権力と主体の二元論から一元的な統治概念へ
2 啓蒙による自己への反逆
3 パレーシアの倫理的転回と倫理的政治
あとがき
註
参考文献