製作の現場から
16 Eメールによる〈手紙の時代〉
▼Kさん、お元気ですか。熱燗のうまい季節になりましたね。「いつだってうまそうに飲んでるじゃないか」って言われそうだけど、ま、時候の挨拶です。深くは追及しないで下さい。
▼この前、お手紙をお出ししてから、もう五、六年になるでしょうか。すっかりご機嫌を損ねてしまったことを、思い出します。「私信をワープロで書くとは何事か」と――。僕としては反論したかったのですが、あまりの剣幕に引き下がってしまいました。でも、もう時間もたったことだし、もう一度、この問題を蒸し返させて下さい。
▼Kさんは常々、「俺は活字で育った。活字がなかったら今の俺はなかった」と言ってましたよね。そうなんです、活字(印刷された文字、の意味で)を信じている人たち、いわゆる活字中毒者に、ワープロ嫌いが多いのです。とても不思議なことですね。小説は作家の草稿を読まない限り、何の意味もない、とか、翻訳なんて、著者の書いた字形とはまるで違ってしまっているのだから、そんなものを読んでも仕方がない、とか言う人はいないでしょうに。
▼活字を信じるということは、結局は人間の言葉が、何かを伝え得ると信じることではないのでしょうか。問題は中身です。書いた人の気持ちです。道具や容器ではないのです。だとしたら、なぜ私信をワープロで書いてはいけないのでしょうか。
▼もちろん、手書きが悪いというのではありません。水茎の跡麗しい達筆の手紙を貰えば嬉しいだろうとは思います(貰ったことはないですが)。たとえ金釘流であっても、きちんと書かれた手紙には、相手の誠実さを感じることもあるでしょう。でも、書いてはみたものの文章を直したくなり、何度も書き直したあげくに誤字を見つけ、くたびれきって投函するのをやめてしまったというような経験はないですか。それならむしろ、道具は何でもいいから、こまめに手紙が書けたほうがいいんじゃないでしょうか。筆勢や文字の乱れから、相手の感情を推し量ることはできないにしても、印刷された文字だって十分に、思想を、感情を、想いを伝えられるのです。だからこそ活字は、何世紀にもわたって、受け継がれてきたのです。それを信じなければ、出版なんて仕事はやってられませんよね。
▼今頃になってこんな話題を持ち出したのは、今、電子メールに対して同じようなことが言われているからです。これまた不思議なことです。ワープロで打たれた手紙と比較したら、電子メールが異なるのは配達手段にすぎません。業務上の連絡ばかりではなく、議論もできるし、喧嘩もできる。ラブレターだって書けますよ(相手がいれば、ですが)。今日は手紙が来ているのではないかと、何度も郵便受けを見に行く気持ち(はるか昔のことで、もう忘れてしまいましたが)と、パソコンを立ちあげて、メールがきていることを期待してネットワークに接続するときの気持ちとに、何の違いもありはしません。
▼新しい文化が新しいメディアを生み、新しいメディアが新たなジャンルを生み出すことは、当然あり得るでしょう。電子メールも何かを生み出すかもしれません。その辺は僕には判りませんので、同封の『大学出版』に、田中優子さんが書いている文章を参考にして下さい。僕が言いたいのは、もっと単純なこと、言葉によって何かを伝えようとするなら、電子メールだって必要にして十分な機能を持っているということです。
▼岩崎恭子ちゃんじゃないですが、これまでの人生で、現在ほどに手紙を書いた時期はありませんでした。正直に言えば億劫な時もありますが、電子メールによる新しい〈手紙の時代〉の到来を予感してもいます。
▼朝夕は冷え込むようになりましたね。ご自愛下さい。 不一
HOME |
No.16
No.17
No.18
No.19
No.20
No.21
No.22
No.23
No.24
No.25
No.26
No.27
No.28
No.29
No.30