製作の現場から
24 フロッピーの中を見てみよう
■ 僕の息子は時計の修理工をしている。しかもアナログ。親父がデジタル大好き人間だから、その反動かも知れない。とはいえ僕も子供の頃は、いろいろな機械を分解するのが大好きだった。とくに腕時計は、歯車がたくさんあるし、その精度に、金属の輝きに魅了されたものだ。
■ それに比べると、デジタル機器というものは分解しても面白みが少ない。パソコンのマザーボードに目を近づけて、蟻になったつもりで見上げると、CPUやメモリの列が未来都市の景観のようで、それなりに美しいが、それ以上のものではない。
■ だから、フロッピーも分解したりしない方がいい。開けてみても、ペラペラしたプラスティックの円盤が一枚入っているだけだ。「フロッピーの中を見てみよう」というのは、もちろん「分解しよう」ということではなく、「中のデータを見てみよう」ということである。
■ 自分でDTPをやる編集者であれば、言われるまでもなくデータを見なければならないし、加工しなければならないのだが、DTPであれCTSであれ、組版を外注している場合には、著者から受け取ったFDをそのまま印刷所に渡してしまうケースが圧倒的に多いはずだ。
■ プリントされた原稿に問題がなければ、データも問題ないだろうと思うのはむしろ自然なのだが、実はそうではない。データが入っていないということさえある。エイリアス(ウィンドウズではショートカット)が入っていたというケースもあった。逆に、同じファイルがいくつも入っていて、どれが最新版なのか判断がつかないというようなこともある。その確認のためだけでも、一度は開いてみる必要があるのだ。
■ さらに、ファイルをテキスト化してみることによって、使えるデータと使えないデータがはっきりする。極端な例だが、プリントではきれいな2段組になっているものの、上段の1行目を打ち、段間にスペースを打って、次は下段の1行目というような打ち方がされている場合、このデータが使いものにならないのは当然だ。それほど極端ではないにしても、引用文の字下げにインデント機能を使わず、スペースで処理してくる著者はあいかわらず多い。
■ 活版時代からの習慣で、僕らは版下段階までを組版と呼び、その料金を組版代と称しているが、その内容は活版とCTSないしDTPでは全く異なっている。活版の時代には、入力は100%印刷所の仕事であったし、組版自体が熟練と多大の労力を必要としたのだが、現在では、入力はほぼ著者の仕事であり、文字だけの棒組であれば、組版はテンプレートにテキストを流し込むだけだ。むしろ大変なのは、テキストの整形と赤字の差し替えなのである。
■ 言い換えれば、内容的に完全原稿で差し替えの必要がなく、そのまま使えるきれいなデータであれば、作業効率は格段に向上する。組版代も安くなって当然だ。4月16日付の『朝日新聞』に取り上げられた未來社・西谷氏の主張も、組版代の削減をめざすとともに、データの質に関する著者・編集者の意識の改革を訴えたものであろう。
■ 学術専門書の出版が困難になってきている。しかし、困難だ困難だと言うだけでは事態は改善されない。少しでも原価を下げるためには、著者にも協力して貰わなければならない。ワープロ段階で完全原稿にするための情熱を持てないような著者の本を無理して出す必要はない。また、入力の約束事にしても、それほど難しいことではないのだから、それを著者に要求するのは、決して不遜でも傲慢でもないだろうと思う。
(不労平(ふろっぺえ))
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