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製作の現場から
19 不思議なことば「本が好き」
▼この原稿を含めて、冬休みの宿題は多々あったのだけれど、毎年のことながらやる気になれない。大晦日はとうとう、紅白を最後まで見てしまった。
▼つくづく不思議な番組だと思う。歌の合間の、落ちが来る前に白けてしまうコント、歌の内容とはおよそマッチしない(あるいは、歌っている歌詞のみじめさに抵抗するような)絢爛豪華な衣装、そしてあらゆるジャンルの歌、とりわけ最近の歌番組ではほとんど聴くことのないド演歌の多さ――僕が高校生の頃から何ひとつ変わっていない。
▼別に、紅白を批判しようというのではない。視聴率が落ちたとはいっても比較の問題で、お化け番組であることに変わりはないから、NHKにしても、このスタイルを変えたくはないのだろう。ある意味では、趣味の多様化とか、個性の時代とかいうことばの内容の空疎さを、紅白はその視聴率によって笑い飛ばしているのかもしれない。
▼多様なジャンルの闇鍋的混沌ということに限れば、本の世界も変わりはない。大型書店に行ってみれば、そこには哲学書があり、小説があり詩集もある。辞典があり技術書があり、実用書や学参がある。漫画もあるし絵本もある。位置や大きさはさまざまだが、エロ本のコーナーもひっそりと存在している。
▼これらをひっくるめて、僕らは「本」と呼んでいる。紙に印刷され、表紙をつけて綴じてさえあれば、ジャンルも内容も問わない。誰も「本」だとは思っていないだろうけれど、字面だけからすればビニ本も裏本も「本」であることにちがいはない。
▼手本に由来するという古来の意味は措いて、現在では「本」というのは形を示すものであり、価値観を伴わない。にもかかわらず僕たちの世代の人間は、両親や先生たちから、本は大切にしなければならないと教えられたから、古くなったパソコンソフトのマニュアル、二度と読まないであろう推理小説など、ゴミにすぎないものでも、ちり紙交換に出すのは抵抗がある。
▼おそらく、たいていの人がそうだ。子どもの頃から無意識のうちに「本」は価値あるものと刷り込まれているから、履歴書の趣味の欄に「読書」と書けば、多少は知的な感じを与えるだろうと思っている。審査する方も、「趣味=読書」に対して何も怪しまない。実際には、どんな本を読んできたかは、学歴や職歴以上にその人物を示すものであろうし、読んできた本によっては、組織にとって不適切であることの証明であるかも知れないのに。
▼当然、「本が好き」という言い方も、かなり曖昧である。「活字中毒者」なるものは確かに存在するようだが、誰もがそうではない。現に、物語の世界に浸って空想の翼を広げるのが好きなのを「本全般」が好きなのと勘違いして、大学出版部の編集者になってしまった男も存在する(すみません、僕のことです)。
▼本の未来を語るについても、「本全般」について何かを言うことはむずかしい。本は、「本」の一文字で括れるほど簡単な対象ではない。それは「本」の形に凝縮された、聖俗あわせ持つ「世界」に等しいからだ。「〈紙の本〉の手軽さ・便利さに勝るものはない/いや、これからはネット出版&オンデマンドの時代だ/その前にマルチメディア化だ」と議論してみても、対象となる「本」の定義づけが明確でない限り、おそらく不毛でしかない。
▼本について語るなら、議論するなら、それは誰が読む本なのか、どこで読む本なのか、情報の鮮度がどれだけ重要視される本なのか、それ以前に、読む本なのか、図版や写真の比重の大きい見る本なのか、それとも検索し調べるための本なのか、何かを学ぶための本か楽しむための本か、本の持つさまざまな対象と機能の、どの部分について語り議論しようとしているのかを明確にしなければならないだろうと思っている。(紅白饅頭)
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